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第21話 虹川陽一
◆◇◆
会社創立以来の危機に陥っていたVDSに、久しぶりにソウスイが戻ってきた。ただ、戻ってきた時には二人とも眠っていて、最初にそれを見た時は、さすがに俺も狼狽えてしまった。
特に翠は、やっと顔色が戻ったと思っていたところだったのに、今度は血の気が失せた青白い顔になっていた。そんな顔で眠られていれば、死んだと思っても仕方がないだろう。
これまでだって、何度もあいつを失うかもしれないと思ったことはあったはずなのに、それでもこの二度の喪失に関する恐怖は、俺の中では異様に大きかったように思う。
それはおそらく、巻き込まれている事件があまりに不可解で、思考が整理しづらいことが原因だろう。いくら冷静になろうとしても、頭の中のモヤはなかなか晴れそうになかった。
「何を思い詰めてんのかなー?」
不意に柱の影からミチが現れ、俺の手にあったタバコを奪った。そしてそれを灰皿にぎゅっと押し付けて火を消す。ジュっと音を立てて立ち昇る煙を見ていると、月夜に倒れていた真っ白な翠を思い出す。その時の翠の髪の色は、タバコの煙に似ていた。
「二人とも落ち着いたか?」
「うん。和人がついてるよ。一本もらうね」
そう言って、ミチは俺のタバコを一本抜き取り、ライターを灯した。まっすぐに伸びる火の柱を眺めて初めて、無風だということに気がついた。
長い時間外にいたことは、肌がじっとりと汗ばんでいることでわかった。それなのに、風が吹いていないことにも気がついていなかったらしい。それくらいに今の俺は放心しきっている。
「あの紙袋からの匂いについて、何も謎が解けてないよな」
俺はまたタバコを抜き取って、それに火をつけた。そして、それを口に咥えたまま記憶を辿る。あの朝、コーヒーを買いに行った店もスタッフも、特に問題がないことはわかっている。
紙袋に入ったコーヒーを受け取って店を出てからは、まっすぐ社長室へと向かった。その間、誰にも会っていないし、そもそもこの建物にいる人間は、客であれスタッフであれ、身元が厳しく調べ上げられている。
俺や翠に危害を加えようとしている人間など、宿泊も、ましてや雇用されるはずもなかった。
「俺が誰かと顔を合わせたのを、忘れている可能性はないんだろうか」
「記憶力には自信があるんでしょう? それに、監視カメラのチェックもされてるって言ってたじゃない」
俺はゆっくりと煙を吐き出しながら、この憂鬱な気分も一緒に体から全て抜け落ちていけばいいのにと思っていた。どうにも、あの紙袋の件だけは、納得がいかない。必ず、何かを見落としているはずなのだ。
「なあ、ミチ。お前を信用して質問する。俺が紙袋を受け取った時、あの場にいて怪しまれない人間が、裏切っている可能性はあると思うか? 会社の人間か、警察か、タワーか……政治家」
「政治家? 澪斗さんとか、咲人さんの事?」
俺は被りを振って、笑いを吐き出した。さすがにそれだけは無いと思いたい。そう願ってはいるけれど、悩んで痛む額を押さえた。
「永心家では無いと願いたいな。ただ、あまりに犯人が見えなかったら、あいつらも調べ上げるしかなくなるだろう。その必要性もわかっているだろうから、拒否もしないだろうしな。でも、この場合は疑うなら池本の方だろうな」
すると、今度はミチが大きく噴き出して、一気に煙を吐き出し、蒸せてしまった。俺はミチの背中をさすりながら、「何笑ってんだよ」と返す。
「だって、池本側の人間がいたら、それこそすぐに田崎さんが気がつくでしょう? センチネルよりもガイドよりも瞬間記憶能力の優れている、社長が誇るミュートのトップでしょう、あなたは。そのあなたが知らない人がいたとしたら、それこそ犯人そのものじゃないの? 三十年前の殺人犯なんて、会ったことが無いでしょう?」
「犯人そのもの……」
そう言われれば、そうかもしれないと思い始めていた。俺は、一度会った人間の顔を忘れることは無い。いつまでそれが可能なのかはわからないが、今のところ覚えられなかった人はいない。
ただし、会ったことの無い人間では、気がつきようが無い。俺が会ったことのない人間で、ここに自由に出入りが出来るのは……。
「そうなると、やっぱり警察だろうな。さすがに全員の顔を覚えることはないし……」
ミチは俺の手からまたタバコを抜き取ると、「何本灰にしたら気が済むのよ」と笑いながらそれを押しつぶし、火を消した。言われて気がついたが、俺の周りにはフィルター付近まで燃え尽くして下に落ちた吸い殻が散乱していた。
「えっ、これ俺がやったのか?」
「そうよ、だから心配になって声をかけたの。和人が行こうとしたんだけど、澪斗さんから電話が入って……」
ミチは眉根を寄せて、目に涙を浮かべていた。側から見ると、俺は相当に参っているらしい。確かに、疲労は蓄積している。ただ、参っているというよりは、むしろ使命感に振り回されていて、やる気が溢れすぎて空回りしていると行った方が正しい。
「無茶しないでよ。射撃の腕も一流だろうし、すごいところはたくさんあるだろうけれど、私たちは結局ミュートで、どうしてもセンチネルに勝てないところはあるんだから」
そう言って、俺のネクタイを掴むとぎゅっと思い切り締め上げた。気合いを入れるためにしてくれたのだろうが、加減されていなかったため、俺はうっかり死にかけた。
「うっ! ……お前、ちゃんと加減しろよ……喉の軟骨が潰れるだろうが」
「うるさいわね、しっかりしない田崎さんが悪いのよ。いい、私たちはミュート。役割が違うの。だから、記憶やデータが真実を語らないのなら、五感と六感に優れた人たちに聞けばいいのよ。海斗さんと澪斗さんが来てくれるそうよ。実りのあるミーティングしましょう!」
そう言って、俺の手を引いてミーティングルームへと向かった。
「お前、なんかどんどんしっかりしてくるな」
手を引かれたまま俺がそう声をかけると、嬉しそうな顔をして振り返った。急いでいるからか、歩は全く緩めない。
「だって、刑務所に入ってる人を待ってるんだもの。出て来てから生活に困らないように、私が稼ぐ地盤を作っとかないといけないでしょ? 昇進するわよ、ここで」
そう言って、口の端をぐいっと上げた。強かになったミチの悪い笑顔は、最高に魅力的だった。
「そうか。俺もうかうかしてられねーな」
「そうよ。副社長でい続けたかったら、ちゃんと働きなさいよ!」
ビムの管理を任されているとはいえ、一般の社員から取締役の俺は叱られた。「はい、社員様」と答えると、ミチは楽しそうに笑った。
◆◇◆
「遅くなってすまない。二人の顔を見ていたら涙が止まらなくなってしまって……僕も歳だね」
澪斗さんがそう言って目の端を拭うと、海斗さんはその肩にそっと手を乗せた。
「はい。俺も戻って来てからなかなか動揺がおさまらなくて……さっきミチに叱られて少し目が覚めました」
「そうなんだ。じゃあ、僕も叱ってもらおうかな」
澪斗さんはそう言ってミチに笑顔を向けた。すると、ミチは澪斗さんに目一杯の愛想笑いを返し、「あら、永心先生を叱るなんて恐ろしいこと出来ませんよ。私、お茶入れて来ますね」と言って、部屋を出て行った。
ドアがパタンと閉まり、カツカツと鳴るミチのヒールの音が聞こえなくなってから、澪斗さんは「彼女は聡いよね。何も言わなくても退出してくれた。きっとここで活躍するんだろうな。咲人の下について僕を支えてもらいたいくらいだよ」と呟いた。
「そうですね。二年前に俺もそれは感じました。その時の勘を信じて良かったと思います。あいつは、それまでの人生は無茶苦茶でしたけど、あれ以来まっすぐ生きていこうと必死に頑張ってますから。ミュートスタッフの中では、とてもいい先輩ですよ」
俺の答えを聞いて、嬉しそうに澪斗さんは顔を綻ばせた。その柔らかい雰囲気は少しもブレることなく、そのまま事件の話へと移る。
「さて、田崎くん。翠くんがコーヒーショップの紙袋に『蒼の匂いがする』と言った時の話なんだけれど、その日の記録と記憶から滑り落ちている人物を探そうと思う」
「滑り落ちている人物、ですか?」
「そうだよ。君の記憶力は素晴らしいものがあるし、監視カメラは優秀だ。それでも、どこかであの紙袋に、蒼くんの匂いをつけた人物がいるはずなんだ。それは間違いない。そうなると、紙袋を手にしてから翠くんが飛び出すまでの間のことを、もう一度思い出してもらわないといけない。海斗さん、お願いします」
澪斗さんは海斗さんに水を向けると、海斗さんがタブレットにある分析データを表示してくれた。それは、どうやら遺伝子情報のようで、誰かと誰かのデータが完全に一致しているという結果を出している。
「これは……なんのデータでしょうか。四本のグラフのうち、青い二本は蒼ですよね。それはわかります。では、この赤の二本は……?」
海斗さんは、その赤いグラフを指で指し示した。そして、その言葉を口にするのが心底嫌だというように、眉間に皺を寄せた。
「これは、あの紙袋についていた体液と指紋の比較データだ。あの紙袋に蒼くんの匂いがしていたのは、蒼くんの唾液がついていたからのようだ。そして、この赤いサンプルは……虹川陽一のものだ」
「虹川?」
俺は記憶力には自信がある。これまで見たもの、聞いたことのほぼ全てを記憶している。その俺が、一瞬何を言われたかわからないほどに、意外な名前が飛び出てきた。狼狽えるを通り越して、なぜか無性に腹が立っていた。
「俺がこの紙袋を持ってから、虹川陽一に会っているということですか? そんなバカな、あの日も出入りのチェックはしっかりしてるはずです!」
あまりの動揺に、思い切り椅子を倒しながら立ち上がってしまった。部屋中に硬質なもの同士がぶつかる大きな音が響き渡り、直後に痛いほどの静けさが襲ってきた。二人は、とても冷静な目をして俺を見ている。
いや、その目は恐ろしいほどに冷え切っていた。
「田崎くん、そこがおそらく思い込みによる穴なんだよ。君がコーヒーを持って翠くんに会うまでに、誰とも会っていないかい?」
「そんなこと……一階のカフェでいつも通りのオーダーをして、それを紙袋に入れるのを目の前で見て、会計処理をして戻ろうとした時に……」
俺はハッとした。そうだ、その時に会った人物がいる。その日に出社する予定では無かったのに、なぜかいたスタッフがいたじゃないか。
「……もしかして、今村さんが……」
驚きすぎて声が震えている俺に、海斗さんは被りを振って答えた。
「田崎くん、今村さんはどうやら帰宅後に拉致されたようだ。家族が捜索願を出したらしい」
「本当ですか!? でも、そんな話はこちらには来てない……」
「そうだ。一般人は捜索願を出すのは警察だからな。つまり、警察は今村さんが行方不明だということを、こちらに知らせていないんだ。家族には、会社の人間が怪しいから報告するなと言ってあるらしい」
「つまり、警察に関係する人物が、今村さんになりすましていたということですか? そして、それが虹川だと、そういうことですか?」
「そうだ」そう答えた時の澪斗さんは、氷のように冷たい表情をしていた。
「でも、それなら出勤状況を見れば、それが誰だかすぐにわかるんじゃないでしょうか?」
「普通ならな。でも、いてもいなくてもわからないやつって、どこにでもいるだろう? その人物が、勤怠のデータを改竄できるような人物なら、尚更だ」
また部屋の中を沈黙が襲った。ここに出入りが自由な警察は、水上警察署のセンチネル交渉課の人物だ。最も出入りが多いのは、野本。だが、野本はずっと咲人と一緒にいるか、澪斗さんと一緒にいる。
その澪斗さんとは、海斗さんが一緒にいる。野本が犯人なら、すぐにバレてしまうだろう。
「センチネル交渉課の人物で、勤怠データを改竄出来る権限を持ち、いてもいなくてもわからない人物……」
海斗さんは、タブレット端末にある人物のデータを表示させた。
「……嘘ですよね? 俺たちと直接交渉していた人が犯人だなんて……」
そのタブレットに表示されていたのは、制服姿の佐倉課長だった。
「佐倉さんが、虹川陽一……ということですか?」
「おそらくね。虹川陽一は服役中に何度か自殺未遂を起こしている。首を吊って死のうとした時に、喉の骨を折っているんだ。その手術あとが残っている。……私たちの目には見えないけれどね」
澪斗さんがそういうと、海斗さんは佐倉さんの甲状軟骨あたりを指差した。そして、すっと少しだけそれをスライドさせる。
「……ここに、手術痕がある。この範囲だけ、細胞のエネルギー量が少ない。俺の目には、黒く映っているんだ」
「黒く……」
俺は記憶の中の翠を思い出した。昔、センチネルとして働いていた大垣さんの体にあった特徴だ。翠が言っていた。
『体の中に、いくつか細胞のエネルギー量が落ちて暗くなっている箇所がある』
大垣さんはトランスジェンダーで、長年の夢を叶えて女性の体を手に入れていた。その手術痕のことを、翠がそう言っていた。
「センチネルの証言があれば、警察だろうと逃げることはできない……」
俺がそう呟くと、海斗さんは大きく頷いた。
「そうだ。そして、この男を捕まえて、サンプルを取れば、もう言い逃れはできない」
海斗さんは力強くそう言い切った。
しかし、犯人がわかったにも関わらず、なぜだか嬉しそうでは無かった。その理由は、後日、ある場所を捜索することで判明する。
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