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第3話
ブーッブーッ
「…ん……」
耳慣れた電子音がまだ覚醒していない頭の中に響きわたる。悠哉は頭の上に置いてあるスマホを手探りで探し、画面を確認すると柚井陽翔と表示されていた。なんとかスマホを手に取り通話ボタンに手をかける。
「もしもし悠哉?えっと、具合大丈夫かな、学校行けそう?」
「今何時…?」と絞り出た声は自分でも驚くほどかすれていて、喉の痛みも感じ始めていた。起き上がると身体が鉛のように重くだるい。
「すごい声だね…。朝の七時だよ、熱は測った?その様子だとまだ体調良さそうには見えないけど」
「七時…。今起きたからまだ測ってない」
「測らないと駄目だよ!その様子だとかなり辛そうだし…」
スマホ越しから聞こえる陽翔のよく通る声が頭に響いて、悠哉の気分はなおさら悪くなった。そのため「急に耳元ででかい声出すなよな、頭いてぇ」と陽翔に文句を言う。「あ、ごめん…」と陽翔は申し訳なさげに悠哉に謝った。
「で、でも…!僕心配だから今から悠哉の家に行…」
「はぁ?」
思わず陽翔の言葉をさえぎってしまう。また陽翔の過保護が発動しているようだ、と悠哉は頭を抱えたくなった。これぐらいの風邪一人でも平気なのに、陽翔はわざわざ家に来て看病するつもりなのだろう。
「来なくていい、てか来んな」
「そんな言い方しなくても…」
「来たところでもう家出る時間だろ?学校はどうするんだよ。それに俺前にも言ったよな?俺のためとか理由づけられてわざわざ学校休むようなアホ行動する奴は大嫌いだって」
「ゔっ……分かったよ…。でもそのかわり何か食べてよね…?放課後寄るからその時何か持ってくるね」
陽翔は渋々といった感じで納得した。悠哉は一安心すると「おー」と生返事をしこれ以上喋るのも辛いと判断したため一方的に通話を切った。
スマホを放り投げ立ち上がると一瞬だけ視界がぼやけ、悠哉の足元はおぼ着いた。熱のせいで真っ直ぐ歩くことすらままならないため、壁沿いに階段を下りていく。陽翔の言う通り、まずは何か食べようと思い適当に冷蔵庫を漁ってみるが、見事に食べるものがなく悠哉は落胆した。そういえば食材を切らしていることを今思い出した。今から米を炊くのも面倒くさいと思った悠哉は、ミネラルウォーターとプリンを手に取りまた二階へと戻った。
ベッドに座り「ふぅ…」と一息つく。昨日はあれから少しの食事を済ませ風呂に入ったあと、徐々に上がっていった熱に耐えられなくなりすぐに寝てしまった。寝たら治るだろうと思っていたが、治るどころか酷くなっているような気もする。身体中が熱く、昨日まではなかった頭の痛みまでもが悠哉を襲っていた。元々体調を崩しがちだった悠哉は熱には慣れていたが、身体を包むような熱さ、全身に響きわたる関節の痛み、ガンガンと頭に鳴り響く頭痛、何度体験しても辛いものは辛かった。身体が辛いと心も辛くなってくるのが不思議なもので、なんだか泣きたくなってくる。
悠哉はミネラルウォーターをグイッと口に運び喉に流し込む。冷たい液体が喉を伝っていき熱された身体を一瞬だけ冷ましてくれるようだった。食欲はなかったがプリン程度なら食べることが出来、空になった容器をゴミ箱に投げ入れ悠哉は再びベッドに横になった。
目を閉じると睡魔がやってくる。自然と瞼が下がっていき、身体が睡眠に入ろうと準備を始めているようで悠哉はふわふわとした感覚に陥った。睡魔に身を委ねていると、何故だか随分昔の記憶が悠哉の頭の中に浮かんでくる。優しかった母の笑顔、母さんが生きていた頃はまだ幸せだったな、と思い出しながら悠哉はいつの間にか意識を手放していた。
誰かにグッと両腕を捕まれた衝撃で悠哉は目が覚める。
「お前も母さんに似てきたな」
この声を聞いて悠哉はハッとした。
――俺は声の主を知っている、俺の大嫌いな声。
相手の顔を見ると、そこには虚ろな目をしてニヤッと笑っているあの男の姿が映っていた。途端にゾワッとした寒気が悠哉を襲い、悠哉の身体は硬直した。
――怖い、気持ち悪い、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
今すぐ「離せっ!!」と突き飛ばしてやりたいのに、まるで声の出し方を忘れてしまったような感覚で悠哉は一言も言葉を発することが出来なかった。身体も氷のように固まっており動かすことが出来ず、この男に抵抗するすべがない事への絶望を覚えた。
するりと男の手が服を捲りあげ、悠哉の素肌へ触れてくる。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ、誰か助けて
「悠哉、おい悠哉」
誰かの声で目が覚める。息が苦しい、悠哉は息の仕方が分からずハァハァと浅い呼吸を繰り返すことしか出来なかった。バクバクと心臓の音が頭の中で鳴り響いている。
「悠哉、大丈夫か?」
悠哉は顔を上げた途端、ゾッと全身の毛が逆立つような恐怖心に襲われる。先程の男が目の前にいるのだ。
怖い、怖い、怖い、恐怖心から何も出来ず悠哉は布団をバッと頭から被り、自分の身体を守るように抱きしめながら縮こまった。ブルブルと震えが止まらず、息の仕方がわからない。ハァッハァッと段々呼吸がはやくなっていき空気を吸うことすらままならない。
すると男が悠哉から布団を剥ぎ、「おい、悠哉!」と力強く悠哉の肩を掴んできた。そんな男の行動に悠哉はさらにパニックを起こしてしまい、自分を制御することすらままならず「やめろっ!!はなせ…っっ!」とどうにかして男の手から離れようともがき暴れた。
悠哉の様子に一瞬驚いたような表情を見せた男は、両手を上にあげ降参だと言うように「悠哉。俺だ、彰人だ。俺はお前が嫌がるようなことは決してしない、だから大丈夫だ」と悠哉の目をしっかりと見つめ訴えた。
彰人…、その名前を聞いてやっと目の前の男が神童彰人だと悠哉は気がづいた。
「あき…ひと…?」
「そうだ、彰人だ。俺はお前の嫌がることは何もしない、だからちゃんと息を吸え。ゆっくりでいい、大丈夫だから」
彰人は子供をあやすかのような言い方で悠哉を宥める。それ程までに彰人は悠哉に気を遣っていた。
悠哉は彰人の言葉に従い、すー、はー、とゆっくり息を吸っては吐いた。徐々に落ち着きを取り戻し、呼吸も安定してきたようで今の状況が鮮明に見えてくる。
俺はまたやってしまったのか、と悠哉は自分の過ちに絶望した。あの時見たく、彰人のことをあの人だと勘違いして勝手に取り乱し、ひどく拒絶してしまった。熱のせいで昔のトラウマが夢となって出てきてしまい、夢と現実の区別をつけることが出来なかった。本気であの人が目の前にいるのだと悠哉は思い込んでしまったのだ。
取り乱したことへの恥ずかしさや拒絶してしまったことへの申し訳なさなどが重なり、悠哉は気まずい気持ちで彰人の顔を見ることが出来ない。
悠哉が無言で俯いていると、「もう大丈夫そうか?」と彰人は優しく語りかけてきた。
「ああ。……ごめん」
「なんでお前が謝るんだ」
「だって俺……またお前に酷いこと言ったから…」
「俺に対して言ったんじゃないんだろ?その様子だと俺と誰かを勘違いしてしまった、だから事故みたいなものじゃないか。俺は気にしていないからお前も気にするな」
彰人の言葉に悠哉は思わず涙が出そうになった。彰人はあの男とは全くもって違うのに、今でも二人を重ねてしまった自分が憎くて堪らない。これでは三年前とまるで変わらないではないか。
「過呼吸になった時は本気で焦ったが、落ち着いたみたいで良かったよ。看病に来たはずが悪化させたなんて行ったら陽翔に殺されそうだ」
「看病…?」
看病という言葉に、そういえば何故彰人がここにいるんだ、と悠哉は疑問に思った。色々あったせいで気づかなかったが、悠哉の家を知るはずもない彰人がここに居ること自体がまずおかしい。万が一家を知っていたとしても、鍵だってしっかりと掛けていたはずなんだから彰人が家に入り込むことは不可能なはずだった。
「なんでお前がここにいるんだ…?」
「陽翔からお前が熱で寝込んでると聞いたんだ。だから陽翔のかわりに俺が看病に来たわけで鍵も陽翔から貸してもらった」
「……は?」
「陽翔から連絡来てないか?」
そう言われスマホを確認すると陽翔から『今から神童先輩が家に来ると思うけど僕が頼んだことだから先輩に怒らないでね』とメッセージがきていた。
「ちょっと待て、どういうことだ?陽翔がお前に頼んだって…嘘だろ…?」
「本当だ。今日悠哉が休みだと知って陽翔に聞いてみたんだが、風邪をひいたと偉く心配していてな。今すぐ帰って悠哉の看病をしたいけどそんなことしたら悠哉に怒られるから無理だと」
「だからお前が来たのか…?」
「まあな。三年生は今日午前帰りだったからちょうど良かっただろ」
彰人は全く悪びれる様子もなく淡々と言葉を述べていく。「そういう問題じゃないだろ…」と悠哉は思わず項垂れた。こいつらは正真正銘の馬鹿なのではないか、と悠哉は疑ってしまうほどに呆れてしまい何も言えない。第一、他人の家の鍵を第三者に渡すことがおかしい。元々一人で暮らしている悠哉はもしもの事があった時用に陽翔に合鍵を渡していた。陽翔なら自分の家の鍵を持っていようが何もしないだろうという確信的な信用が悠哉にはあったため渡したというのに、それを彰人に渡すなど有り得ないことだ。
そう、有り得ないのだ。陽翔の悠哉に対する庇護欲はそこらの友人同士をはるかに超えている。そんな陽翔が第三者である彰人に鍵を渡すなんて誰が想像できただろうか。
「陽翔の阿呆…」
「まぁ、陽翔を攻めてやるな。お前を心配してとった行動なんだから」
その言葉に悠哉は思わずイラッときた。そもそも彰人だって彰人だ。見舞いに行ってくれと頼まれても普通家主に無断で家に入るだろうか?立派な不法侵入ではないか。それに彰人が家に来なかったら先程の勘違いも起きずに済んだのだ。彰人に対して申し訳ない気持ちを抱いたことすら馬鹿らしいと思ってしまうほどに、悠哉は彰人の行動に腹が立っていた。
「とりあえず帰ってくれないか?お前に看病される筋合いはない」
「まぁ、そう言うな。せっかく看病に来てやったんだから大人しく看病されてろよ」
「来てやった?不法侵入したやつが偉そうに言うなよ。」
「不法侵入とは心外だな。しっかりとお前の身内から許可をとった上で中に入ったんだ。とりあえず、台所を借りてもいいか?ろくに食事もとってないんだろうから今から作ってくる」
彰人は悠哉の言葉など聞こえていないと言うように、隣に置いてあったビニール袋を手に取り立ち上がった。「おまっ…勝手に話し進めんなよ!」と悠哉は彰人を止めるも、なんだか彰人のマイペースさと我の強さにだんだんと頭が痛くなってきた。熱も上がったのではないかと思ってしまい、もう彰人に対して怒る気力もわかず「もう勝手にしろよ…」と悠哉の方が先に折れてしまった。
「ありがとう。ちょっと待っててくれ」というと彰人は部屋を出ていった。
バタンッと一気に力が抜けたように悠哉は倒れ込む。彰人に対して無意識にずっと気を張っていたようで、身体の疲れが一気に襲いかかる。
昨日、俺の事を頑固だと言っていたが彰人も人のことを言えないぐらいの頑固者ではないか、と悠哉はイラつきからため息をつく。人が頼んでもいないのに世話を焼いてくる彰人に、お節介を通り越してもはや図々しいと思った。そういえば昔から彰人は何かと扱いずらかったな、なんて事を考えながら悠哉はズキズキとした頭痛に目をつぶった。
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