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2-4 疑問

 水浸しになった床を、なんとか元の状態に戻した少女と碧雲(ビーユン)。それを我関せずと、先程まで遠目で眺めていた翠雪(ツェイシュエ)が、口を開く。 「ところでお嬢さん、失礼ですがその右脚はどうされました?」  本当に失礼だな、と碧雲(ビーユン)は怪訝そうに眉を顰める。少女が右脚を庇うように立ち上がったのを見て、あの引きずるような足音の理由を知る。  もしかしたら生まれつきかもしれないし、ただ怪我をしただけかもしれない。どちらにしても、その理由をさっき会ったばかりの赤の他人が問うのはどうかと思った。  しかし、翠雪(ツェイシュエ)は大扇を広げて口元を隠したまま、彼女の右脚から視線を逸らすことはなかった。少女は驚いたような表情を浮かべたまま、桶を抱きしめて佇んでいる。  少女はどこにでもいそうな容姿の、ごく普通の大人しそうな十代後半くらいの女性で、ここの邸の女中が纏うのと同じ、青色を基調とした一般的な庶民の女性が纏う服装をしていた。髪の毛も艶はなく、長い髪の毛を後ろの方で括ってお団子にしている。 「え、あ、あの······私、その、転んでしまって、」  最後の方はぽそぽそと声が小さくなり、消えてしまいそうだった。 「おい、失礼だろう。どうしてそんなことが気になるんだ?」 「別に、ただ訊いてみただけですよ」  翠雪(ツェイシュエ)は大扇を下ろし、肩を竦めて答えるが、明らかになにか目的があって訊いたようにしか思えない。碧雲(ビーユン)は少女に気を遣うように、いつもよりも声の大きさを抑えていたが、その表情はいつも通り眉間に皺も寄っていたため、あまり効果はなかったようだ。 「······す、すみません。このお部屋は慶螢(チンイン)様のお部屋で····知らない方がいたので驚いてしまって······。あの、あなた方は、もしかして趙螢(ヂャオイン)様の言っていたお客様?でしょうか」  ずっと怖い顔をしているが端正な顔立ちの武人と、柔らかい雰囲気の美しい女性のような顔立ちの、道袍を纏った仙人のようなひと。  少女がふたりを見て感じた第一印象は、あながち間違いではない。それは、主である趙螢(ヂャオイン)の言っていた特徴と一致している。  彼らは病で臥せっている慶螢(チンイン)のために、色々と邸の中を調べているので、邪魔をしないようにと女中たちにも伝えられていた。  怪しい者たちではあるが、その見た目から受ける印象は好感が持てる。なにより良い顔がふたつも揃っていると、思わず見惚れてしまうほどだ。  怖い顔をしている碧雲(ビーユン)に対しても、床を拭くのを手伝ってくれたことで、その見た目とは違う不器用な優しさも垣間見れた。 「そうだ。君はここの女中? しかしなぜここに?」  ここは趙螢(ヂャオイン)の息子の自室。慶螢(チンイン)の世話は元々は(ホア)夫人が自らすすんでしていたらしいが、今は彼女自身も看病疲れで寝込んでいるらしい。  その後は趙螢(ヂャオイン)か、彼が忙しくて時間が取れない時のみ、立場が上の女中に最低限の事をしてもらっていると言っていた。  少女はどう見ても下働きのありふれた女中のひとりにしか見えず、碧雲(ビーユン)は素直な疑問を投げかける。 「あ······その、ここを担当している方が、急な仕事で手が回らないので、桶の水と布巾を代わりに交換して来て欲しいと、」  その桶の水を床にぶちまけてしまったことを思い出し、桶を恥ずかしそうに抱きかかえる。満たされていた綺麗な水の代わりに、汚れた水と布巾が漂っている。これでは、もう一度水を汲んでこないといけない。 「わ、私、新しい水を汲んできますので、これで失礼します」  慌てた素振りでふたりに背を向けると、少女は扉に手をかけようと抱えていた桶に視線を落とす。  来た時は押して開いたが、帰りは部屋側に開かないといけない造りだった。それに気付いた碧雲(ビーユン)は扉の右側を代わりに開けてやる。 「あ、ありがとう、ございます!」 「いや、気にすることはない。またひっくり返さないように気を付けて、」  自然にそんな風に動いた碧雲(ビーユン)に対して、彼の長年の甲斐甲斐しい従者っぷりを垣間見た気がする。床を拭くのを手伝っていた時もそうだが。  魔界にいた時は、あの藍玉(ランユー)の護衛官であり世話係。その忠誠心は鬼谷に来てからも変わらなかった。夜鈴(イーリン)への態度にしても、同様だった。  少女は礼を言い、やはり右脚を引きずりながら安定感のない足取りで出て行った。足音が遠ざかった頃、翠雪(ツェイシュエ)碧雲(ビーユン)に視線を向けてくすりと笑みを浮かべた。 「なんだ、急に笑って······気持ち悪いんだが?」 「いえ、今目の前で繰り広げられていたすべてのやり取りが、違和感だらけで。思わず笑ってしまいました」  どういう意味だ?と碧雲(ビーユン)は目を細める。 「ふふ。でも材料としては十分でしょう。さ、もうここに用はありません。次の場所へ行きましょう」 「は?だから、どういう、」  すっと横をすり抜けた翠雪(ツェイシュエ)は、行きますよ、とひと言だけ言い、問いの答えはくれなかった。彼の中では何か解決したようだ。さっぱりわからない碧雲(ビーユン)は考えても仕方がないと首を振り、遅れて歩き出す。 「で、次はどこへ?」  はあ、と嘆息して、碧雲(ビーユン)は乗り気でないやる気のない声で、新たな疑問を口にする。翠雪(ツェイシュエ)の横に立ち、先程少女にしたように代わりに扉を開くと、まるでお嬢さまと従者のような立ち振る舞いで促す。 「次は、(ホア)夫人のところへ行きましょう」  は? と本日何度目かわからない間の抜けた顔で碧雲(ビーユン)は聞き返す。もう本当に、目の前の者が何を考えているのかまったくわからない。  一応、邸のどこへでも行っていいと言われているが、よりにもよって、趙螢(ヂャオイン)の妻の所へ行くと? しかも自分たちだけで? 「馬鹿なのか? 失礼にもほどがあるだろう!」 「別に、挨拶がてら話を聞くだけですよ」  なんでもないという顔で、翠雪(ツェイシュエ)はどんどん先へ進んで行く。それを止める権利は碧雲(ビーユン)にはなかったが、それにしても、だ。 「そもそも、なんでお前が夫人の部屋の場所を知っているんだ?」 「また(・・)。何度言えば学習するんですか、」  足を止め、穏やかな表情のまま、声音は少しだけとげとげしい。碧雲(ビーユン)は完全に無意識で言っている為、その理由に気付いていないようだ。  もういいです、とそっぽを向いて、翠雪(ツェイシュエ)は諦める。これはもう、どうやっても直らない。いちいち気にする時間が無駄、と思い直す。 「夫人の部屋の場所は、昨夜の内に(ヤン)たちに探らせました」 「おい······本当に、いい加減にしろ」  頭を抱え、碧雲(ビーユン)は青い顔をする。この者の行動力は認めるが、そもそもなぜ夫人の部屋の場所まで調べる必要があるのか。  彼が呪詛の犯人の目星を"女性"と絞ったから、片っ端から調べているのだろうか。母親も例外ではないと? 「なぜ母親が息子を呪う必要が?」 「だから、話を聞くだけですって。誰も彼女がなにかしたなんて言っていないでしょう? 私が知りたいのは····まあ、いいです。行けばわかりますから」  おい、と碧雲(ビーユン)翠雪(ツェイシュエ)の右腕に手を伸ばすが、空振りする。一歩先に翠雪(ツェイシュエ)が歩いて行ってしまったからだ。疑問に対してひとつも明確な答えを得られないまま、次なる場所へと移動する。 (本当に、なんなんだ? 五年も共にいるが、こいつがなにを考えているのかさっぱりわからん!)  唯一わかるのは、鬼谷の鬼たち、特にあの幼い双子の鬼や少年には特別に優しいこと。天雨(ティェンユー)との関係も、表向きはお互い喧嘩腰だが、信頼関係は固い。市の鬼たちへの視線は時々冷たいが、別に嫌いというわけでもなさそうだ。  藍玉(ランユー)に対しては、自分のような絶対的な忠誠心はないにしろ、興味が尽きないらしく、色々と考えてくれているのもわかる。  だが、どういうわけか碧雲(ビーユン)にはこのような態度なのだ。それがなんだか腹が立ち、碧雲《ビーユン》自身もこのような態度になってしまう。 (この設定はいつまで続くんだ?俺はいつまでこいつとふたりで行動しなければならない? ものすごく面倒くさいんだがっ!?)  仙人の師匠と弟子。やりづらい上に、面倒すぎる。なにより、翠雪(ツェイシュエ)のあの態度も気に食わない。藍玉(ランユー)も一緒になって碧雲(ビーユン)の知らない設定を付け足すので、もはや混沌としている。  すたすたと迷うことなく歩みを進める翠雪(ツェイシュエ)。通り過ぎる際に邸の者たちの視線を感じたが、まったく気にする様子もなかった。  そしてふたりは、(ホア)夫人の部屋の前へと辿り着くのだった。

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