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第10話 仲直り
結局、マンションに帰ってきたのは0時過ぎだった。
失恋記念と称して飲みに付き合った結果だが、その割には早く帰ってこれたと思う。楓の強メンタルに驚くばかりだ。
(きっと俺に気を遣ってくれたんだ。これからも友達でいたい、なんて言ったから)
とても傷付いたはずなのに、直桜に気を遣える楓は強いと思うし、これからも良い友達でいたいと思う。
なんとなく沈んだ気持ちを引き摺ったまま、直桜はキッチンに向かった。お土産に買ってきたプリンを冷蔵庫に入れておきたかった。
(化野がプリン好きか知らないけど。そういえば、化野の好みって知らないな)
夕飯も別の時が多いし、何が好きかなんて知らない。
私服も見たことがない。いつもスーツで髪を綺麗に後ろに流して、眼鏡をしている。そんな姿しか、見たことがない。
(一緒に住んでるはずなのに、化野のこと、何も知らないんだな)
部屋からキッチンへ続く廊下に出る。
キッチンと向かいの風呂の扉が開いて、誰かが出てきた。
濡れた髪を拭きながら上半身裸の男が目を細めて、こちらを見ている。
細い割に引き締まった体と高い身長、整った顔立ちは、まるで有名人のようだ。
(誰⁉ このモデルみたいな男、誰だ⁉ ここには俺と化野しか住んでいないはず)
あまりに驚いて、声が出ない。
凝視していると、男が声を発した。
「瀬田くん、おかえりなさい」
その声は、まぎれもなく化野だった。
「……え? 化野、なの?」
思わず呆けた声が出てしまった。
化野らしきイケメンが目を擦って、再度直桜を凝視した。
「すみません、眼鏡を外すと人の顔が視認できなくて。少しだけ鬼化すると視力も良くなるんですけどね」
話し方や声は、間違いなく化野だ。やっと力が抜けた。
「眼鏡外した顔、初めて見たから驚いた。てか、髪も降ろしてるし、別人みたいだ」
「そうでしたか? 一緒に住んでるのに、なんだか不思議ですね」
化野が自然に微笑む。
その顔があまりに可愛くて、鼓動が早くなる。
「あ、あのさ! プリン! 買ってきたけど、食べる? 今じゃなくても、いいけど」
ずい、と紙袋を突き出す。
ちらりと中を覗いて、化野が嬉しそうな顔をした。
「これ、お高いプリンですね。ありがとうございます、いただきます」
「プリン、好き? てか、甘いもの、好きなの?」
「ええ、好きですよ。そういえば、瀬田くんも好きですよね、甘いもの」
「うん……」
いつも通りに会話できている気がする。
昨日までの気まずい気持ちが払拭できた気がした。
「今、食べます? 瀬田くんがお腹いっぱいなら、後程一緒に食べましょうか?」
「じゃぁ、今……」
「なら、上着、取ってきますね」
背を向けた化野の腕を、思わず掴んだ。
化野が不思議そうな顔で振り返った。
「あのさ、この前、ごめん。言い過ぎた、と思う。俺が知らない化野の事情もあるはずなのに。でもやっぱり俺、化野に死んでほしくないし、俺が殺したくもない」
胸につかえていた想いが堰を切って流れ出た。
「あれは、私の言い方も悪かったと思います。事情をちゃんと話すべきでした」
「いい! 化野が話したくないことは、聞かない。俺はバディだけど、恋人じゃないし。あと、清祓でキスしたことも、ごめん。今日、友達にキスされて思ったんだ。好きじゃない奴にキスとかされたら、嫌だろうなって」
酒が残っているのだろうか。想いがどんどん言葉に載って、止まらない。
「なるべく、化野が嫌なことは聞かないし、やらないようにするよ。たった三か月だしさ。だから化野も、その辺はっきり教えて……っ!」
強い力で両腕を掴まれた。
「友達に、キスされたんですか?」
化野の真剣な目が間近に迫る。
「え? うん。ちょっと触れた程度だけ、どっ」
言い終わるか終わらないかの内に、噛みつくように唇を塞がれた。
「ん!……ふ、ぁっ」
押し返そうとした力はあっけなく抑えられ、壁に体を押さえつけられた。
プリンが入った紙袋が床に落ちて、鈍い音を立てる。
息を吸う間もないくらい唇が重なって、舌が容赦なく上顎を擦る。
「んっ……ぁ、んん!」
舌を絡めとられて、吸われる。
深くて長いキスに、体の力が抜ける。
腰を強く抱かれて、押し付けられた。熱くて硬いものが股間に触れる。
化野の熱が映ったように顔が熱くなる。
「待って……、あだ、し……。……まも、る」
唇が離れた合間に何とか声を発する。
名前を呼んだら、ようやく動きが止まった。
涙で視界が霞む。化野の顔が、良く見えない。
ざりっとした舌が、直桜の目に溜まった涙を舐めとった。
「瀬田くんが他の人とキスするなんて、耐えられません」
強く体を抱き寄せられた。
首筋を甘く噛まれて、体がびくびくと反応する。
「なん、で?」
鼓動が早くて、息が浅くて、上手く声が発せない。
「忘れてしまいましたか? 私は貴方に一目惚れしたんです。求婚したでしょう」
「あれは、俺が惟神だから、だろ?」
「それもあります。君なら私の隣にいても死なずに生きていてくれる。けどそれは、幸運なオプションに過ぎません」
「オプション?」
化野が直桜の頬を両手で覆う。
手がいつもより大きい。爪も伸びている。鬼化しているのだとわかった。
「あの時の、邪魅に塗れた私を、君は見捨てなかった。自分の立場より私を守ってくれた。今でも君は私を救おうとしてくれる。そんな君を好きになったんです」
真っ直ぐに見詰める瞳が切なく歪む。
胸が締め付けられて、苦しい。
化野が直桜の額に口付けた。
「直桜……俺の話を聞いて。もう隠さずに、全部話すから。たった数日、顔を見られなかっただけで、話せなかっただけで、寂しくて堪らない。傍に、いてほしい」
化野の腕が直桜の背中に回る。
強く抱き締めているはずなのに、加減をしているのだとわかる。
「この鬼化って、邪魅のせい? それとも、自分でやってる?」
「感情が昂ると、時々勝手に鬼化して……、性格も少し、好戦的になるというか、開放的になるというか」
化野の腕を離して、顔に手を添える。
唇を重ねて、体の中の邪魅を吸い上げる。
体内で聞食して、浄化した気を霧散した。
「本当だ、あんまり溜まってないね。俺が傍にいるお陰?」
「全部、直桜のお陰。邪魅が減ったのも体が楽なのも、今、俺が鬼化してるのも、心が苦しいのも、死にたくないと願うようになったのも、全部、直桜のせいだ」
「素直な化野、可愛いね。ずっと鬼化してても、いいかも」
「それはちょっと、疲れる」
化野の顔が直桜の肩に凭れる。
「嫌じゃないなら、もっとキスしよう。俺も多分、化野のこと、好きだよ」
「多分……?」
やや不満げな目が直桜を見詰める。
その表情も可愛いと思う。
「恋愛したことないから、自分でもよくわからないけどさ、その腹ン中の魂魄に嫉妬してる、んだと思う。既に死んだ奴を体を鬻《ひさ》いでまで守ってる化野がムカつく。俺より大事なのかよって思う」
「いや、これは、そういうことじゃなくて」
顔を赤らめた化野が息を吐いた。
「やっぱり、ちゃんと話そう。このままベッドに連れて行って押し倒したいけど、話してからじゃないと、直桜が怒りそうだから」
耳に、頬に、首筋に口付ける化野は、どこか嬉しそうだ。
触れられるたび震えて昂る体は、早く押し倒してほしいと悲鳴を上げる。
「ヤるとしたら俺、初めてだからね。勢いとかは流石に嫌だよ」
一瞬呆けた化野が、とても嬉しそうに笑った。
「そうか。準備もあるし、手取り足取り教えないとな」
化野が片腕で、いとも簡単に直桜の体を抱き上げた。
「準備って、俺がネコなの?」
「別にタチでもいい。というか、そういう知識はあるんだ」
「いやまぁ、多少は。というか、化野は、どっちなの?」
「どっちもイケる。だから、どっちでも」
直桜を抱えたまま、化野が風呂場のドアを開けた。
「だから、待てって! 話が先って言ったろ!」
化野の足元で、カサリと音がした。
床に転がったプリンが目に入って、二人で顔を見合わせた。
「とりあえず、プリン食べようか」
二人で笑い合う。
昨日までのギスギスした気持ちが嘘のように晴れていた。
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