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第15話 心にある不確かな感情

 マントは宿で洗ってくれると言うので任せた。  特殊なタグを洗濯物につけて、持ち主は(つい)になるものを渡される。紛失防止の魔道具らしい。便利な品だとユーリは感心した。  衣類はズボンの裾が少し汚れた程度だったので、デイルが手洗いしてくれ、ブーツも磨いてくれる。  そのあいだユーリはソファに座り、自身の手足などを拭い、身繕いをした。 「そういえばドラフィはどうしたんだ?」 「空間転移の魔道具で宮殿とライードたちのいる宿へ送りました」 「なるほど」  少量の荷物であれば簡易の魔法陣で転移ができる。これは通常の転移魔法の縮小版なので、受け取る側にも魔法陣が必要だけれど。  宮廷魔法使いが描く本来の転移魔法陣は、あらかじめ着地点を計算し、正確な位置を導き出す。  それゆえ片道でも転移できるとても優れた陣だ。  どちらにせよ、非常に特殊な魔法なため、魔力量が多くなければ使えない。 「ユーリさま、御髪を梳いてもよろしいですか?」 「……うん。なんだかこう長いと手間だな。短くしてしまったほうが」  いつものようにデイルが髪の手入れをしてくれるけれど、毎日、自身の身繕いよりも丁寧で申し訳なさが募る。  胸元にかかるほど伸びたユーリの髪。デイルが日々、艶が出るまで櫛で梳いてくれるので、驚くほどサラサラとしていた。  手櫛で梳いても引っかかるなどまずない。 「襟元までバッサリと切ったらどうだろう?」 「そんなことをおっしゃらないでください。せっかく綺麗なのに、短くするなんて」 「デイルはこの髪が好きなのか?」 「はい。煌めく銀色も、鮮やかな緋色もとても美しいです。髪質は繊細で柔らかで。私が傍にいる限り、手入れはおまかせください」 (時々引っかかる物言いをするな、デイルは)  明言をしていないが、いつかいなくなってしまうかのような――そんな言葉の選び方をしている。無意識なのかはわからない。  ユーリとしてはデイルにいつまでも傍にいてほしいと思っていた。  しかしこの先、ユーリが臣籍降下し、どこかへ婿入りしたり、爵位を持ったりしたら。  想う相手が近くにいるのに、誰かと婚姻を交わすのはもう嫌だとも思える。 (僕はやはり、いま……デイルが好きなんだな)  会える確率が少ない黒色の魔法使い。顔も声も名前すら思い出せない。  過去へ巻き戻してくれたのは彼かもしれないのに、薄情な自分にユーリは気分が落ち込む。  ドラゴンの力に寄るもの、という仮説も間違いではないだろう。  けれどユーリの巻き戻りを願った者がきっといる。 「ユーリさま、どうされました?」 「胸が、とても切なくて。……すまない。今日はなんだかひどく涙もろくて」  デイルに優しく髪を梳かれながら、いつの間にかユーリはまた涙をこぼしていた。  気づいたデイルは驚いた表情を浮かべ、すぐさま足元に跪いてくれる。 「僕はこの先、どうしたら」 「なにを悩まれているのでしょう」 「デイルは、僕が未来を見てきたと言ったら信じるか?」 「……それは、どういった意味でしょうか」 「僕は八年先の未来で一度死んだんだ。なのにいま、ここにいる。僕はデイルが大事に見守ってきたユーリルじゃない」 (そうだ。確かにデイルに好意は抱いている。でも自分はデイルが大切にしてきた〝ユーリ〟じゃないんだ)  ユーリが想いに対して踏み切れない理由――自身がデイルの〝ユーリ〟ではないからだ。  おそらくいまの〝ユーリル〟と、以前の〝ユーリル〟に大きな違いはさほどなく、以前の記憶とともに人格も混じってしまったのだろう。  だとしてもいまのユーリはデイルとはたった数ヶ月過ごしただけの間柄。  胸にある気持ちは気の迷いだと言われてもおかしくないくらい、短い期間だ。 「僕がデイルに好意を抱いているのは、もしかしたら以前のユーリが、そうだったのかもしれない。僕は未来で出会った人とデイルが重なるから、好きになった気でいるだけかもしれない。自分の感情が、本物かわからないんだ」  ユーリル・エルバルト・ウォンオール――それは自分自身であるはずなのに、未来とは違う人生を生きてきたもう一人のユーリルがいる。  ただ時間が巻き戻っただけでなく、過去が変わっているからこそ戸惑いがある。  いま胸の中にあるデイルに対する恋慕の気持ち。  未来の自身が歩んでいた人生で芽生えていた恋心。  二つの気持ちはまったく別なのに、いつか境目が曖昧になり、交わってしまいそうな不安。 「僕は時が巻き戻った意味や原因を知りたい。なぜやり直しをしているのか、誰が僕を過去へと送ったのか」 「それゆえにドラゴンのことをお調べなのですね」 「時間を巻き戻すほどの力を持った存在は、この国ではドラゴンしか考えられない」 「では黒色の魔法使いは」 「死に際にたぶん、僕の傍に来てくれたんだ。声が聞こえて、とても大切な人だった。でもなにも思い出せない。彼に関してだけ、思い出せなくて」  中途半端な記憶が残るくらいなら、綺麗さっぱり忘れてしまったほうが楽だ。  そんな風に思いもするが、それほどに忘れたくない相手だったとも言えるのかもしれない。 「ユーリさまはいまを生きてください」 「デイル?」  おもむろに立ち上がったデイルは、ユーリを優しく抱きしめてくれる。  ぽんぽんと背を叩かれ、どうしようかと迷いながらも、ユーリはおずおずとデイルの背中へ手を伸ばした。 「ドラゴンが時を巻き戻すのに力を貸したのだとしたら、それは巻き戻りを彼が望んだからです。ユーリさまは人生をやり直すべきなのだと思われたのです」 「だけど以前の僕は」 「ユーリさま、あなたの魂は一つです。たとえ途中の道が違っていたとしても、あなたであることに変わりありません」 「いまも昔も僕は僕であると?」 「ええ、そうです。あなたはなにも違わない。どんな道を歩んでいても、それぞれ違う生き方をしていても、あなたの心はなに一つ」  一番近くにいてくれた人物がそう言ってくれるなら。もしそれがいまを収めるための、繕いの言葉だとしても――ただただ嬉しく思える。  ユーリはデイルの肩口にすり寄り、額を預けた。 「僕は最期の時、傍にいてくれたあの人に会いたい。だけどデイル、君にも傍にいてほしいんだ。この気持ちはどうしたらいいんだろう」 「…………」 (さすがにこんな身勝手な感情を向けられても迷惑だな)  言葉を返せず、戸惑うデイルの気配が伝わり、ユーリの口元に苦笑が滲む。 「いっそ、デイルが僕の探している人だったら良いのに」  自分勝手な考えが口先からこぼれ、なんてバカなことを考えるのかと思う。  デイルと黒色の魔法使いの色は真逆だ。  ひと目で魔力が豊富とわかる、華やかな色をまとうデイルと、黒色の彼は印象が全然違った。  彼はどちらかと言えば、引っ込み思案で――ふとかすめた記憶に、ユーリは目を瞬かせる。  これまではどんなに思い出そうとしても、思い出せなかったというのに。  彼は寡黙で人前が嫌いで、それでも魔法の話となると饒舌になった。  いまを生きろと言われたばかりで思い出すとは、ますますどうしたら良いか、判断ができなくなる。しかしいまだけは、目の前のぬくもりにすがりたい。  ユーリは切実にそう思ってしまった。 「デイル、今夜はずっと傍にいてくれないか。いまを生きるなら、僕はデイルと生きたい」 「ユーリさま、私は」 「わかっている。デイルが応えられないのは。それでもいい。今夜だけ傍にいてくれ」 「……ユーリさまの望むままに」  主と従、一生変わらないだろう関係。  意志を貫こうとするデイルに自分の元まで上がってこいとは言えない。 (我がままな主人の言葉だと思ってくれていい。ひとときでもいい)  時が巻き戻り、数ヶ月。  ユーリはひたすら前へ向かい進んできたけれど、心の片隅では不安もあったのだ。  知っているようで知らなかった家族。臣下たち。  時折、夢でも見ているのではと、目覚めて〝いま〟を確認してしまうこともあった。 「夢ではないと信じたい」 「大丈夫ですよ。ユーリさまは〝いま〟を生きています。悪夢は終わったのです」 「悪夢、アレが夢だったら良いのに。なにもかもが夢だったら」 「さあ、今日はもう眠りましょう。疲れたでしょう?」 「デイル、口づけをくれないか」 「あなたの望むままに」  顔を上げると穏やかに微笑んだデイルの指先が、そっとユーリのおとがいに触れる。  まぶたを閉じて待っていたら、優しくいたわるような口づけが落とされ、無意識にユーリの唇が弧を描く。  何度も、ついばむ口づけを交わし合ったあとは、二人並ぶには小さいベッドで、身を寄せ合い横になる。  緊張して眠れないのでは、などと考えたのは一瞬だけで、デイルの腕に包まれてすぐ、ユーリはウトウトとし始めた。  どうやら緊張していたのはデイルのほうで、胸元へすり寄るユーリに対し、しばらく体が強ばっていて可哀想になってしまったほどだ。  それでも時間が経つと慣れたのか。優しくユーリの体を抱きしめて、髪に頬を寄せながら寝息を立て始めた。  初めてデイルの眠る姿を見られたユーリは、この上なくいまが幸せに思えた。

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