20 / 36

第20話 幻と夢の残滓

 気づくとユーリは魔法局の裏側にあった、小さな秘密の空間にいた。  うっかり迷い込まなければ見つからないだろう場所。  椅子に座っているユーリの隣には長い黒髪の彼がいる。少しくせ毛で、手入れをきちんとしないから、いつも所々跳ねていた。 『ユーリ?』 「……あっ」  振り向き、優しく名を呼んでくれる声、それはとても聞きなじみのある声音だった。  かすかにぼやける彼をユーリがじっと見つめると、黒い左目が瞬いた。右目は、前髪で隠れて見えない。しかしそこにあるのはきっと―― 「ディー、右目を」  自然と口から出てきた名前。これは愛称だ。二人のときだけ呼び合う約束だった。 『ふふっ、ユーリは意地悪だな。せっかく隠しているものを見たがるなんて。そんなに俺の右目の色が好きなのか?』  苦笑したディーが長い前髪をかき上げる。彼の右目は綺麗なピンク色だ。  左右の色が異なるのは帝国では珍しくない。けれどこの優しい色の組み合わせは、ユーリがいま想いを寄せている人の色だった。 「ディー、どうして僕の前で知らないふりをするんだ。どうして? 覚えていないのか?」  夢だとはっきりわかる状況なのに、ユーリは問わずにいられなかった。  しかし問いかけられた彼は驚きで目を丸くしたあと、苦笑しなにかを言いかける。 『ユーリ、それはね。俺が――だから』 「ディー? なに? 聞こえない」  徐々に遠ざかる声、ぼやけていく愛おしい人。彼がなにを言わんとしているのか、もっと知りたい。  陽炎のように消えていく彼――〝デイル〟へユーリは必死に手を伸ばした。  聞きたいことはたくさんあったのに、現実のほうで呼びかけられてしまったようだ。 「――ユーリさま?」  ユーリが夢から覚め、重たいまぶたを開くと、ちょうどデイルが自分に毛布を掛けてくれているところだった。  浴室から出た彼は、ベッドの上で転がっているユーリに気づき、気遣ってくれたのだろう。 「起こしてしまい、申し訳ありません。どうか、されましたか?」 「なんでも、ない」  目を覚ましてからじっと顔を凝視するユーリの様子に、デイルは心配そうに問いかけてくれる。穏やかな声は先ほど、夢で聞いたばかりの響き。  だが問い詰める真似ができず、ユーリは言葉を濁した。 「風邪を引きますよ。きちんと毛布を掛けてください」 「うん」 「お腹は空いていませんか?」 「いまは、あまり。デイルは食べに行ってくるといい」 「すぐ戻ってきます。なにか軽食を持ってきますので、あとで召し上がってください」  優しく髪を撫でるデイルの手に、ユーリは胸が苦しくなり、毛布の中へ潜り込む。  避けるような行動に戸惑った気配を感じるが、黙っていれば彼は小さく息をつき、部屋を出て行った。  外から扉に魔法をかけていったのがわかる。四人以外、出入りができないようにするための魔法だ。おそらくユーリが部屋を出ると反応する仕組みだろう。 「心配をかけてしまった。でも、デイルがそうだとは思わなかったから。そうだったらいいと思ったけど。意外と近くって、近すぎじゃないか? しかも覚えていないかもしれないなんて、どうしたらいいんだ」  毛布の中で丸まり、ユーリはブツブツと独り言を呟く。いまは気持ちの整理が追いつかないのだ。探していた人が見つかった。  けれど自分に気づいてもらえていないのかと思えば、切なくて、悲しくてたまらない。 「ディー、僕を覚えていないのか。それとも気づいたけれど、黙って知らないふりをしている? どっちだ」  考えられるのは後者だ。最初は気づかなかったとしても、打ち明けた際に未来のユーリが戻ってきたと知ったのだから。  そもそも彼だけが未来と違う。彼が過去を変えてきた可能性が高い。  一度思い出すと、するすると記憶が奥底から引き出される。  魔道具が発達した経緯に、デイルは確実に関与しているだろう。未来の彼は魔力が乏しかったものの、知識と魔法の構築にとても秀でていた。  最初に机の引き出しを開いた時、違和感を覚えたのはそのせいだ。  同じようなものを誰かが考案していた。片隅に引っかかっていた記憶。 「どうして僕はディーのことを思い出せなかったんだろう。たぶん、なにか理由があるはず」  忘れていたというよりも、奥底に封じられていた感覚が強い。 (この町で治療薬が行き渡ったら、ホートラッド山へ先に行きたいな)  またウトウトしてきたユーリはあくびを噛みしめて、眠気に誘われるがまま目を閉じる。  デイルの夢を再び見られたらいい。  そう思ったけれど、夢に出てきたのは別の存在だった。  風が通り抜けるゴーゴーという音が、かすかに響いている。  首を巡らしてみれば周囲は岩場。だが天井は高く、奥行きもある。まるで人為的に大きくくりぬかれた、洞窟のような場所だ。 (ここはどこだろう。初めて見るのに、なんとなく懐かしいような) 『誰が来たかと思えば、緋色の魔女ではないか』  辺りを見回しながら、薄明るい空間の奥へとユーリが進んでいくと、突然声が聞こえてくる。あまりに唐突だったので、ユーリは驚きで体が跳ね上がった。 「だ、誰だ?」 『なんだ、そなたは友を忘れたのか?』 「――っ、緋色のドラゴン」  声の先へ進んでいったユーリの視界いっぱいに映ったのは、仰ぎ見なければいけないほど巨躯の、緋色の鱗を持ったドラゴンだった。 「友? 僕が?」  体を伏せ、寝ていたらしいドラゴンは、ユーリの言葉に緋色の目を細める。 『魂が尽きぬあいだは、我の友であると約束したのに、忘れてしまったのだな』 「ドラゴンの友は、初代皇帝では、ないのか」 『やれやれ、人は歴史をねじ曲げるのが得意だ。だから好かない』  ふーっとドラゴンがため息をついたら、ぶわっと突風に似た風が吹き抜けた。  勢いに一歩後ろへユーリの体が下がるけれど、見えないなにかが支えてくれ、ひっくり返らずに済んだ。 『ふむ、緋色の魔女かと思ったが、そなたは〝いま〟の魔女か。なぜこんなところに迷い込んだのやら。帰り道がわからなくなる前に帰るといい』 「ま、待ってくれ。僕は、あなたに会いたいと思っていたんだ!」  ドラゴンの言葉とともに視界がぼやけ、彼の姿が消えてしまいそうになり、ユーリは慌てて大声を上げる。すると今度はかすかに、ドラゴンは息をついた。 『なにが知りたいのだ?』 「いま、現在に僕を戻したのはあなたか?」 『そうだ。――これで満足か?』 「僕が、あなたの友だからか? だとしても、それだけで時間を巻き戻すなんて。……もしかしてなにか、代償にしているんじゃ」  ドラゴンの問いかけが無意識に自身への自問自答になっていく。  ユーリの心に浮かぶのは嫌な予感。  最期の時、傍にいたデイルと赤く光った稲光。  そしてなぜかデイルの存在だけ忘れてしまった自身。 『代償は、未来だ。魂の欠片も残さず我に捧げると約束をした』 「え……未来? 彼の未来か? 八年先の、未来のすべてなのか!」 『失われる者を覚えていても得はないだろうと、記憶をしまってやったのに、そなたは変わらずあの男を愛しているのだな』  いまユーリは初めて、胸を突き刺された痛みを感じた気がした。  予感が的中し、ふらりと足をよろめかせてユーリはその場に膝をつく。 「そんな、ディーがあと八年しか、生きられないなんて」  この世界では魂は巡るものと考えられている。  死したあとは〝時の神〟から新しく生を受け、再び大地に舞い戻るのだ。  ゆえに罪を犯し、魂が欠けてしまったり、デイルのように神などに捧げたりしてしまえば、もう二度と魂は巡ることが叶わない。 『過去のそなたも同じ真似をしたではないか。あの男の未来のために、我に願った。男の治める土地に平和をと――わずかな寿命と、我の生涯の友になる約束を引き換えに』 「それは」 『覚えておらぬのならいい。緋色の魔女よ。さあ、帰るのだ。魂のままウロウロしていると、体に戻れなくなるぞ』 「まだ、聞きたいことが――っ」  呆れた声のドラゴンがふーっと長い息を吐くと、ユーリの体は後ろへと押しやられる。 『もしも未来を正しいものへと変えられるのなら、代償は半分にしてやっても良いぞ』 「正しい未来とは? 待ってくれ、ドラゴン!」  戻されまいと手を伸ばすユーリだけれど、体はどんどんと後ろへ下がり、しまいには視界が真っ暗になった。  最後にぽつりと「皮肉な運命だな」と悲しげなドラゴンの声が響く。  ユーリの意識が深い眠りから浮上すると、見慣れた宿の壁が見えた。  部屋の中は暗く、もう寝静まった頃合いのようだ。寝返りを打って窓のほうへ視線を向ければ、薄明かりに浮かぶデイルの姿が見える。  一瞬、思いのままに駆け寄り、抱きついてしまいたい衝動に駆られるけれど、ぐっとこらえてユーリは毛布を抱き込んだ。 (未来……どれが正しいのかわからない。それでもディーの未来は僕が必ず)  ドラゴンは命を盾に取っているわけではない。  なにごとも大きな願いにはそれ相応の対価が必要になる。  しかし魂すべてを捧げたデイルは、二度と神より新しい生を与えてもらえない。  死したら魂は失われ、生まれ変わることが不可能になるのだ。 (生まれ変わり――僕をドラゴンは友と、緋色の魔女と言った。帝国建国になにか関わりがあるのかもしれない。やはり幻の村を探し、もう一度ドラゴンに会わなければ)  胸に決意を秘めて、ユーリは黙って目を閉じ、朝が来るのを待った。

ともだちにシェアしよう!