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第20話 幻と夢の残滓
気づくとユーリは魔法局の裏側にあった、小さな秘密の空間にいた。
うっかり迷い込まなければ見つからないだろう場所。
椅子に座っているユーリの隣には長い黒髪の彼がいる。少しくせ毛で、手入れをきちんとしないから、いつも所々跳ねていた。
『ユーリ?』
「……あっ」
振り向き、優しく名を呼んでくれる声、それはとても聞きなじみのある声音だった。
かすかにぼやける彼をユーリがじっと見つめると、黒い左目が瞬いた。右目は、前髪で隠れて見えない。しかしそこにあるのはきっと――
「ディー、右目を」
自然と口から出てきた名前。これは愛称だ。二人のときだけ呼び合う約束だった。
『ふふっ、ユーリは意地悪だな。せっかく隠しているものを見たがるなんて。そんなに俺の右目の色が好きなのか?』
苦笑したディーが長い前髪をかき上げる。彼の右目は綺麗なピンク色だ。
左右の色が異なるのは帝国では珍しくない。けれどこの優しい色の組み合わせは、ユーリがいま想いを寄せている人の色だった。
「ディー、どうして僕の前で知らないふりをするんだ。どうして? 覚えていないのか?」
夢だとはっきりわかる状況なのに、ユーリは問わずにいられなかった。
しかし問いかけられた彼は驚きで目を丸くしたあと、苦笑しなにかを言いかける。
『ユーリ、それはね。俺が――だから』
「ディー? なに? 聞こえない」
徐々に遠ざかる声、ぼやけていく愛おしい人。彼がなにを言わんとしているのか、もっと知りたい。
陽炎のように消えていく彼――〝デイル〟へユーリは必死に手を伸ばした。
聞きたいことはたくさんあったのに、現実のほうで呼びかけられてしまったようだ。
「――ユーリさま?」
ユーリが夢から覚め、重たいまぶたを開くと、ちょうどデイルが自分に毛布を掛けてくれているところだった。
浴室から出た彼は、ベッドの上で転がっているユーリに気づき、気遣ってくれたのだろう。
「起こしてしまい、申し訳ありません。どうか、されましたか?」
「なんでも、ない」
目を覚ましてからじっと顔を凝視するユーリの様子に、デイルは心配そうに問いかけてくれる。穏やかな声は先ほど、夢で聞いたばかりの響き。
だが問い詰める真似ができず、ユーリは言葉を濁した。
「風邪を引きますよ。きちんと毛布を掛けてください」
「うん」
「お腹は空いていませんか?」
「いまは、あまり。デイルは食べに行ってくるといい」
「すぐ戻ってきます。なにか軽食を持ってきますので、あとで召し上がってください」
優しく髪を撫でるデイルの手に、ユーリは胸が苦しくなり、毛布の中へ潜り込む。
避けるような行動に戸惑った気配を感じるが、黙っていれば彼は小さく息をつき、部屋を出て行った。
外から扉に魔法をかけていったのがわかる。四人以外、出入りができないようにするための魔法だ。おそらくユーリが部屋を出ると反応する仕組みだろう。
「心配をかけてしまった。でも、デイルがそうだとは思わなかったから。そうだったらいいと思ったけど。意外と近くって、近すぎじゃないか? しかも覚えていないかもしれないなんて、どうしたらいいんだ」
毛布の中で丸まり、ユーリはブツブツと独り言を呟く。いまは気持ちの整理が追いつかないのだ。探していた人が見つかった。
けれど自分に気づいてもらえていないのかと思えば、切なくて、悲しくてたまらない。
「ディー、僕を覚えていないのか。それとも気づいたけれど、黙って知らないふりをしている? どっちだ」
考えられるのは後者だ。最初は気づかなかったとしても、打ち明けた際に未来のユーリが戻ってきたと知ったのだから。
そもそも彼だけが未来と違う。彼が過去を変えてきた可能性が高い。
一度思い出すと、するすると記憶が奥底から引き出される。
魔道具が発達した経緯に、デイルは確実に関与しているだろう。未来の彼は魔力が乏しかったものの、知識と魔法の構築にとても秀でていた。
最初に机の引き出しを開いた時、違和感を覚えたのはそのせいだ。
同じようなものを誰かが考案していた。片隅に引っかかっていた記憶。
「どうして僕はディーのことを思い出せなかったんだろう。たぶん、なにか理由があるはず」
忘れていたというよりも、奥底に封じられていた感覚が強い。
(この町で治療薬が行き渡ったら、ホートラッド山へ先に行きたいな)
またウトウトしてきたユーリはあくびを噛みしめて、眠気に誘われるがまま目を閉じる。
デイルの夢を再び見られたらいい。
そう思ったけれど、夢に出てきたのは別の存在だった。
風が通り抜けるゴーゴーという音が、かすかに響いている。
首を巡らしてみれば周囲は岩場。だが天井は高く、奥行きもある。まるで人為的に大きくくりぬかれた、洞窟のような場所だ。
(ここはどこだろう。初めて見るのに、なんとなく懐かしいような)
『誰が来たかと思えば、緋色の魔女ではないか』
辺りを見回しながら、薄明るい空間の奥へとユーリが進んでいくと、突然声が聞こえてくる。あまりに唐突だったので、ユーリは驚きで体が跳ね上がった。
「だ、誰だ?」
『なんだ、そなたは友を忘れたのか?』
「――っ、緋色のドラゴン」
声の先へ進んでいったユーリの視界いっぱいに映ったのは、仰ぎ見なければいけないほど巨躯の、緋色の鱗を持ったドラゴンだった。
「友? 僕が?」
体を伏せ、寝ていたらしいドラゴンは、ユーリの言葉に緋色の目を細める。
『魂が尽きぬあいだは、我の友であると約束したのに、忘れてしまったのだな』
「ドラゴンの友は、初代皇帝では、ないのか」
『やれやれ、人は歴史をねじ曲げるのが得意だ。だから好かない』
ふーっとドラゴンがため息をついたら、ぶわっと突風に似た風が吹き抜けた。
勢いに一歩後ろへユーリの体が下がるけれど、見えないなにかが支えてくれ、ひっくり返らずに済んだ。
『ふむ、緋色の魔女かと思ったが、そなたは〝いま〟の魔女か。なぜこんなところに迷い込んだのやら。帰り道がわからなくなる前に帰るといい』
「ま、待ってくれ。僕は、あなたに会いたいと思っていたんだ!」
ドラゴンの言葉とともに視界がぼやけ、彼の姿が消えてしまいそうになり、ユーリは慌てて大声を上げる。すると今度はかすかに、ドラゴンは息をついた。
『なにが知りたいのだ?』
「いま、現在に僕を戻したのはあなたか?」
『そうだ。――これで満足か?』
「僕が、あなたの友だからか? だとしても、それだけで時間を巻き戻すなんて。……もしかしてなにか、代償にしているんじゃ」
ドラゴンの問いかけが無意識に自身への自問自答になっていく。
ユーリの心に浮かぶのは嫌な予感。
最期の時、傍にいたデイルと赤く光った稲光。
そしてなぜかデイルの存在だけ忘れてしまった自身。
『代償は、未来だ。魂の欠片も残さず我に捧げると約束をした』
「え……未来? 彼の未来か? 八年先の、未来のすべてなのか!」
『失われる者を覚えていても得はないだろうと、記憶をしまってやったのに、そなたは変わらずあの男を愛しているのだな』
いまユーリは初めて、胸を突き刺された痛みを感じた気がした。
予感が的中し、ふらりと足をよろめかせてユーリはその場に膝をつく。
「そんな、ディーがあと八年しか、生きられないなんて」
この世界では魂は巡るものと考えられている。
死したあとは〝時の神〟から新しく生を受け、再び大地に舞い戻るのだ。
ゆえに罪を犯し、魂が欠けてしまったり、デイルのように神などに捧げたりしてしまえば、もう二度と魂は巡ることが叶わない。
『過去のそなたも同じ真似をしたではないか。あの男の未来のために、我に願った。男の治める土地に平和をと――わずかな寿命と、我の生涯の友になる約束を引き換えに』
「それは」
『覚えておらぬのならいい。緋色の魔女よ。さあ、帰るのだ。魂のままウロウロしていると、体に戻れなくなるぞ』
「まだ、聞きたいことが――っ」
呆れた声のドラゴンがふーっと長い息を吐くと、ユーリの体は後ろへと押しやられる。
『もしも未来を正しいものへと変えられるのなら、代償は半分にしてやっても良いぞ』
「正しい未来とは? 待ってくれ、ドラゴン!」
戻されまいと手を伸ばすユーリだけれど、体はどんどんと後ろへ下がり、しまいには視界が真っ暗になった。
最後にぽつりと「皮肉な運命だな」と悲しげなドラゴンの声が響く。
ユーリの意識が深い眠りから浮上すると、見慣れた宿の壁が見えた。
部屋の中は暗く、もう寝静まった頃合いのようだ。寝返りを打って窓のほうへ視線を向ければ、薄明かりに浮かぶデイルの姿が見える。
一瞬、思いのままに駆け寄り、抱きついてしまいたい衝動に駆られるけれど、ぐっとこらえてユーリは毛布を抱き込んだ。
(未来……どれが正しいのかわからない。それでもディーの未来は僕が必ず)
ドラゴンは命を盾に取っているわけではない。
なにごとも大きな願いにはそれ相応の対価が必要になる。
しかし魂すべてを捧げたデイルは、二度と神より新しい生を与えてもらえない。
死したら魂は失われ、生まれ変わることが不可能になるのだ。
(生まれ変わり――僕をドラゴンは友と、緋色の魔女と言った。帝国建国になにか関わりがあるのかもしれない。やはり幻の村を探し、もう一度ドラゴンに会わなければ)
胸に決意を秘めて、ユーリは黙って目を閉じ、朝が来るのを待った。
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