35 / 76

2-5 痴れ者、攫われる

 奥に行くにつれ、深い森は明るいはずの時間なのに薄暗く、背の高い木々と濃い葉っぱに覆われて影だけが地面に落ちる。  二列で進む一行の横を、のそのそと歩き回る殭屍(きょうし)たち。それらは無視して、向かってくるモノだけ、先頭にいる白冰(はくひょう)が、手に持っている艶やかな紋様が描かれた扇で難なく倒していく。 (決して弱い妖者でもないのに、あんなに軽々と倒すなんて)  竜虎(りゅうこ)は感心していた。そして自分はまだまだ未熟だと思い知らされる。白冰は確か二十歳で、白笶(びゃくや)は十八歳。そんなに大きく歳が離れているわけでもないのに、どちらも自分たちよりずっと大人だ。 「どうしたの清婉(せいえん)? 怖い? 俺が歌でも歌ってあげようか?」 「それだけはやめてくださいっ! ······って、無明(むみょう)様、私の名前知ってるんですか?」 「え? 初めて会った時に教えてくれたでしょ?」  十年くらい前の話で、しかもそれ以来会話という会話をしていないというのに?  耳を塞いで首を振っていた清婉は驚いて目を瞠った。邸に住まう金虎の一族の者たちで、自分の名前を知っている者などまずいない。  一緒に働く従者たちは別として。 「父上がお付きの従者をひとり指名していいって言うから、唯一知ってる名前を上げたんだっ」  一瞬感動を覚えたのに、一気に谷底に突き落とされる。  ははっと笑って頭の後ろで両手を組み、後ろ向きで歩きながら楽しそうにこちらを見上げてくる無明に、清婉はがっくりと項垂れた。  そんなやり取りをしていた時、無明の背中と前を歩いていた雪鈴(せつれい)の背中が軽くぶつかった。  すみません、と会釈をされ、くるりと身体の向きを変えた無明はどうしたの? と訊ねて、止まった前列に視線を向けた。 「······気を付けて、」  雪鈴(せつれい)の左側に控える雪陽(せつよう)の方が代わりに答えた。無明と竜虎(りゅうこ)は顔を見合わせる。 「これは······鬼火か?」  それはどんどん増えて、気付けば一行の周りをぐるりと囲むように青白い炎の塊が連なっていた。 「渓谷の妖鬼の仕業かもしれない。下手に動かない方がいいだろう」  白漣(はくれん)宗主は、落ち着いた様子で後ろにいる者たちに声をかけた。  太陽もまだ出ていて、渓谷まではまだ距離があるというのに、こんな場所で一体なにをしようというのか。鬼は何に興味を持ったのか。  鬼火が灯ったと思えば、今度は濃い霧が辺りを覆い始めた。それはお互いの姿が見えなくなるほどの霧で、竜虎は思わず隣にいるはずの無明の衣を掴んだ、のだが······。 「ひぃっ!? なななな、なんですかっ」 「しっ! それはこっちの台詞だっ! って、なんでお前が隣にいるんだっ」  小声で怒鳴りながら竜虎は衣を無造作に放った。そして急に吹いた突風が、囲んでいたいくつもの鬼火と辺りを漂っていた深い霧を一瞬にして晴らすと、何事もなかったかのように元の森が姿を現す。  お互いの顔が見えたことにほっとしたのも束の間だった。 「無明?」  竜虎は青褪める。皆、ひとりひとり顔を確認していたが、こういう時に一番騒がしいはずの者の姿が、どこにもなかったのだ。 「無明がいませんっ」  焦って何度も辺りを見回すが、見えるのは深い森の木々だけで、ますます動揺してしまう。そんな姿を見た宗主が、竜虎の肩を軽く叩く。 「落ち着きなさい。どうやら、気に入られてしまったようだね」 「どういう、意味ですか?」  宗主は真剣な面持ちで竜虎を見下ろし呟く。答えを待たずに、白笶(びゃくや)が近くの太い木の幹に思い切り拳を突き立てた。 (ひぃぃいっ!?)  その行為に清婉は声にならない悲鳴をあげる。突然上がったドンという大きな音もそうだが、問題はその直後だった。  とばっちりを受けたその大木はみしみしと大きな音を立てて、白笶が突き立てた拳の先から無惨にも折れてしまったのだ。  地面に崩れ落ちる大木の地響きと同時に、枝にとまっていた烏たちがぎゃあぎゃあと鳴き叫ぶ声と、羽ばたきが煩く響き、竜虎は思わず白笶の方を見やる。灰色がかった青い瞳は、煌々と光を帯びているかのように冷ややかで、鋭い眼差しが渓谷の方を向いていた。  背筋がぞくりと震えて、現実に戻される。 「場所は見当がつく。渓谷の底だ」  白冰は扇で口元を覆って指先を森の先へと向けた。その先は渓谷。妖鬼の中でも特級となれば、夜でなくとも平気で活動できる。  油断していたわけではないが、声すら出させずに煙のように人をさらうなど、並大抵の者ではないことが解る。 「彼は無闇に傷付けたり、まして殺したりはしないだろう」  この場からすぐにでも渓谷に向かおうとしていた白笶の肩を掴んで止める。  ()という呼称を使うのは、敬意を表しているからだ。特級階級の妖鬼は賢く、長く生きている者ほどわきまえているのだ。  人の世に関わるのは、気が向いた時だけ。その気を向かせるほどの器ならば、すぐに解放することも稀ではない。 「あの子も賢い子だ。大丈夫」  何の根拠もなかったが、白冰のその自信たっぷりな笑みに、白笶の瞳が少しだけ冷静さを取り戻したようだった。  そして一行が渓谷の吊り橋が見える辺りまで辿り着く頃には、陽が沈みかけ、夕焼けの空が燃えるように朱色に染まっていた。

ともだちにシェアしよう!