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3-20 氷楔

「ちょ、ちょっと、待って!」 「神子(みこ)、ずっと、あなたが目覚めるのを待っていました。この太陰(たいいん)、再びあなたの(もと)でこの力を使えること、嬉しく思います」  無明(むみょう)の感情など無視して、太陰は汚れることなど気にせずに、地面に跪いて、さらに深く頭を下げた。    机の上に座っているせいもあって、高い位置にいた無明は、その行為を目にするなり慌てて机から降り、太陰と同じように地面に座り込んだ。 「ちょっと待ってください。俺は、神子じゃない! たまたま見えるだけであって、それだとは限らないでしょっ!?」 「たまたま見えるなんてあり得ない。それに、仮にも神と名の付く四神だよ? ただの人間や、ただの術士に跪くわけないでしょ?」  地面に座り込んでいる無明を逆に立たせて、狼煙(ろうえん)は面白そうに笑い、跪いたままの太陰に同情する。 (まあ、記憶が少しも残っていないなら、当然か、)  かつての神子は始まりからずっと記憶を引き継いで、何度も転生をはたしてきた。だから説明も要らず、目覚めてある一定の年齢になると各地を巡礼し、四神との契約をすんなりと書き換えられたと言えよう。 「神子、大量の穢れが水を通して全土に広がり、通常一度で浄化できる許容量を超えてしまっているのです。このまま浄化し続ければ、日の出前には、この地の宝玉が砕けてしまうでしょう」 「そんな······だって、宝玉は百年は穢れをためても大丈夫なんじゃないの?」 「この地を覆う穢れ自体は微量で、術士たちが原因となる妖者を倒すことで均衡を保っているのです」  太陰はやっと顔を上げ、しかし跪いたまま、その問いに丁寧に答えていく。宝玉は所詮、媒介でしかない。本来の玄武の守護とは違うのだ。 「しかし、今回のように神聖な水自体が穢れてしまうと、その穢れが水を通して陰の気を膨らませ、その陰の気がこの地を巡り、やがて土地全体が穢れていく。その度に宝玉が浄化を始め、穢れを吸い取ればどうなるか、」 「都の運河の穢れは早めに気付いて、領域結界で広がらないようになんとか封じ込めができたけど。その前の上流からの穢れは、宝玉が浄化していた。そのせいで誰も異変に気付けず、そのまま都にまで流れ付けたってわけだね、」  つまりは、都にあの怨霊たちが辿り着いた時点で、宝玉は限界を超える一歩手前だったということ。  しかも水龍が邪龍と化したことでさらに水が穢れ、その一歩手前だった一線は、猶予がほとんど無くなってしまったのだ。 「先ほど言った通り、日の出前まで私と契約を結べなければ、この地は穢れに覆われ、やがて人が住めない地となるでしょう」 「日の出まではあとどのくらいある?」  無明は後ろに立つ狼煙を振り向き、見上げて訊ねる。ふっと唇を緩めて、狼煙は屈み、耳元で囁く。 「あと、一刻半くらいかな?」  無明は太陰の方へ向き直ると、再び地面に膝を付く。同じ高さの目線になり、その青い瞳を覗き込むように見つめる。 「神子かどうかはこの際どうでもいい。もし俺があなたと契約する権利があるなら、契約する。そうすれば、碧水のひとたちは助かるんだね?」  太陰はゆっくりと頷く。それを確認して、無明は眼を閉じて大きく息を吸い、長く深く吐いて気持ちを落ち着ける。  そして、左右ひと房ずつ編み込まれて後ろでひとつに纏められていた、赤い髪紐を解いて口に咥えると、今度は長い髪を後ろでひとつに纏めて、高い位置で再び髪紐を結び直した。  よし、と顔を上げ、それから太陰の腕を掴んで立たせた。 「俺の友達が言ってくれたんだ。応えたくなったら、応えればいいって。俺は、あなたの声から逃げるのは止める。契約するためになにが必要?」 「なにも必要ありません。ただ、」  太陰は、傍らに移動してきた狼煙を一瞥し、それから無明に右手を翳した。 「氷の(くさび)の中で、あるひとを捜すこと」  途端、無明の足元に青白い光の陣が展開され、気付けば膝の辺りまで氷に覆われていた。不思議なことに、その氷は少しも冷たさを感じさせず、しかし身動きは全く取れなくなる。 「そして、話を聞くこと。ただ、それだけ」  徐々に凍っていく身体に不安を覚えたが、そんなことを考えている内に、無明は深い眠りに襲われた。  気を失うように意識を失った無明の身体は、頭の先まで氷に覆われ、やがて先端が細く他端が太い刃形の楔のような氷の結晶が作り上げられた。  その中で浮かぶように、立ったまま眠っている無明の髪の毛や黒い衣は、氷の中で時が止まってしまったかのようだった。 「あとは、神子を信じて待とう」 「危険になったら、俺は迷わずに連れ戻すけどね」  この地がどうなろうが関係ない。大事なのはただひとり。 「鬼子よ、お前は、本当に、なにがしたいんだ?」  言葉をわざと切れ切れに紡ぎ、胸の辺りに人差し指を押し付け、睨んだ。 「俺は、俺の神子を取り戻したいだけ」 「それを神子は望んでいない。少なくとも、お前の知っているあの神子は、な!」  ふんと太陰は狼煙を押し退け、そのまま祠の方へと向かって行く。  残された狼煙は、氷楔(ひょうせつ)の中で眠る無明の頬の辺りに、氷を隔てて触れる。  くそ真面目な太陰を怒らせたのは、別にわざとではない。本当のことを言っただけ。  触れていた手を下ろしたその時、首元にひんやりと固いものが付きつけられた。  同時に、突如背後に現れたその者の声に、耳を疑う。 「無明が契約を望んだのか? それともお前が(そそのか)したのか? どちらだ」 「どっちだと思う?ねえ、役立たずの公子殿、」

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