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3-29 光の雨
その大男の姿を見て、何を思ったのか、にやりと白冰 が口元を緩めたのを、竜虎 は運悪く見てしまった。その瞬間、
「おっと、手が滑った」
完全なる棒読みで、白冰は自分の目の前に跪いた大男の顔すれすれに、わざと大扇を落としたのだ。
それには、雪鈴 と雪陽 も目を瞠る。
なぜなら、白冰の右手から滑り落ちたその大扇は、大男の鼻を掠って、地面についていた両手のちょうど真ん中辺りに突き刺さっただけでなく、それを中心にして地面が大きく陥没したのだ。
大男の身体がその強い衝撃でがくんと前のめりに傾ぎ、そのまま顔面から勢いよく倒れ込んでしまった。
「え、嘘、」
「あの大斧と同じくらいの重さってこと?」
「う、うーん······なの、かな?」
雪陽は動揺こそしていないが、顎に手を当てて観察している。雪鈴は苦笑を浮かべ、なんとか雪陽の質問に答えようとするが口ごもる。
大男はそのまま気を失ってしまい、ぴくりとも動かなかった。
やれやれと地面にめり込んでいる大扇を、普通の扇を持ち上げるかの如く軽々と手に取ると、白冰は肩を竦めた。
「さて、と。竜虎殿は最後の媒介の無効化を。雪陽はその援護。雪鈴は私についてきなさい」
は、はい! と三人は慌てて言われた通りに動く。雪鈴は白冰の横に控え、その視線の先を同じように見据えた。
崖の端に、ふたつの影が並んでいた。同時に、明け始めた空の色を確認する。夜明けが近い。
「自己紹介くらいはしてくれてもいいのでは?」
見上げたまま、白冰は、黒衣に身を包むふたつの影に向かって訊ねる。言葉を返してくれる保証はなかったが、聞く権利はあるだろうとあえて強気で言ってみた。
ふたつの影はひとつは背が低く、もうひとつは低い影の頭三つ分くらいは高く見えた。
「なんで俺たちが、あんたなんかに名乗らなきゃならないわけ?」
しかし、律儀に背の低い方が応える。少年のような声音だった。
「まあまあ、そうカリカリしないで。私たちは、あれです。ほら、よく言う、名乗るほどの者ではありませんってやつです、」
もうひとつの影は、穏やかに言い回しているが、結局のところ、言っていることは少年と何ら変わらない。
「目的は穢れで宝玉を壊すこと?それとも別の大きな謀でもあるのかな?」
「そんなこと、教える義理はないでしょう?」
にこやかに答えるその声はどこまでも読めない。
そんな問答を繰り返していたその時、この碧水 を覆うほどの大きな陣が深い藍色の空に突如現れた。それは見たこともないような術式の陣で、薄青の光を湛えていた。
「あ、れは? なんだ?」
最後の媒介を無効化し、赤い陣が消えた後、雪陽と共に辺りの妖者たちを倒していた竜虎は、思わず空を見上げていた。
「······玄武の陣、まさか、そんなこと、」
白冰は書物でしか見たことがないその術式の陣に、驚く。そして、それが何を意味するかを悟る。
(白笶、君は、一体、)
あの時、この事態になる前に、白笶は言った。
「神子 が目覚める時、四神の契約が書き換えられ、再びこの地に玄武の加護が戻る。しかし、私は、できることなら、それを止めたい」
まるで、神子を知っているかのような口ぶりだった。余裕がなかったというのもあるだろう。隣に無明 がいなかった。
(いや······しかし、それ以外の答えはない)
降り注ぐその聖なる光の雨が、この地の穢れを一掃していく。妖者たちはばたばたと倒れ、黒い霧となって消え失せる。
眩しい光が、渓谷を照らし始める。やっと夜が明けたのだ。
白冰は大扇を広げて口許を隠し、ひとり霊山の方へと視線を向けた。
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「やれやれ、やっと目覚めたようですよ。私たちもさっさと退散しましょう」
「なあ、あいつ、あのまま置いてくの? あんたの知り合いでしょ、」
「え、あなたの知り合いでしょう?」
ふたりは崖の下で伸びている大男を見下ろし、それから顔を見合わせる。
「さあ、帰りましょう!」
「だな。あー、無駄に疲れた」
「あなたはなにもしてないでしょう、」
まったくと肩を竦めて、黒衣の青年はふふっと笑った。少年はぐっと伸びをして、背を向ける。目的は達した。
どうやら玄武の契約は成功したようだ。これ以上ここにいても意味はない。
「次は白虎ですかね、それとも青龍?」
「どっちでもいいや。監視は烏にでも任せる。俺たちは報告するだけ」
ですね、と青年も背を向けた。そしてふたつの影は、ようやく顔を出した太陽に溶けるように消えてしまった。
碧水の地に、玄武の加護が戻った。その朗報は、瞬く間に暉 の国全土に伝わった。
そして同時に、神子が永い眠りから目覚めたという噂が、五大一族の中で広まったのだった。
しかし、その神子がどこにいるのか、どんな人物なのか、その真実だけは知る由もなかった。
そう、一部の者たち以外には。
第三章 〜了〜
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