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4-14 紫陽花

 夕餉の後、無明(むみょう)は部屋には戻らず、白笶(びゃくや)の後ろをこっそりついて行っていた。白冰(はくひょう)に教えてもらったことを実行するためだった。 (······なんかだか、悪いことをしているみたい)  邸の角を利用して物陰に隠れ、ある程度の距離を取って後ろを歩く。人気はなく、渡り廊下には雨の音だけが響いていた。  夕刻くらいから降り出した雨は、止むことなく降り続けている。打ちつける雨音は蓮の花や葉に当たると、水面に落ちる音とはまた違った低い音が鳴る。  渡り廊下には屋根が付いているので濡れることはないが、そこから少しでも出てしまえば、肩口が濡れてしまう。現に、無明が纏う白い衣裳と前髪がしっとりと濡れてしまっていた。 (やっぱり、また今度にしよう、)  少しくらい胸が痛くても、我慢すればいいのだ。死ぬほどではないと白冰も言っていたし。  考えた末、白笶の背中をもう一度見つめ、ひとりで納得して頷いた。踵を返し、無明が一歩足を踏み出したその時、ふいに腕を掴まれて後ろに引き寄せられる。  へ? と間抜けな顔で振り返ってみれば、離れた場所にいたはずの白笶の姿があった。呆然と、腕を引かれたまま立ち尽くす。  もしかしなくてもバレバレだったのだろうか。  白笶は眼を細めて怪訝そうに見下ろしてくる。  広間を出てからなにも言わずに後ろを付いて来る無明を不思議に思いながらも、好きにさせていたのだが、急にこの場から離れようとしたので、思わず引き留めてしまったのだ。  よく見れば髪の毛から水が滴り、衣裳も肩や裾の辺りが濡れていた。無言で前髪に滴る雫を指で拭ってやるが、無明はその大きな瞳でただ見上げてくるばかりで、なにも言わない。 「こちらへ、」  腕を引いたまま、白笶は自室のある方向へ向かう。雨音が激しくなっていた。白笶の部屋は邸の北側の一番端の方にある。  そこは他の部屋と違い、湖水が途切れている場所のため、部屋の外に庭があり、よく手入れの行き届いた池もあった。庭には三つほど背の高い精巧な石造りの灯籠もあり、暗い庭を仄かに照らしてた。  その明かりは雨の雫に反射して、庭全体を幻想的な空間に仕立てており、部屋の中よりもずっと明るく見える。  元々は客間だったが、白笶がここが良いと珍しく我が儘を言って自室にしてもらったのだ。灯篭がひとつだけ灯っているだけの薄暗い部屋の中に入れば、必要最低限の物しかない殺風景な部屋だった。  そのひとつだけ点いている灯篭の灯りのある、黒い縁取りの花窓から、雨に濡れている咲きかけの紫陽花の花々が薄っすらと見える。青々とした大きな葉に、まだ咲き初めの青い紫陽花と、青紫の紫陽花の花の蕾がいくつも付いていた。 「紫陽花、」  無明はなぜか昔から紫陽花の花が好きだった。今頃の季節に咲き始めるその花は、ひとつの株にたくさんの小さな花が集まって、まるで家族のように仲良くぎゅうぎゅうに咲いているのだ。  紅鏡(こうきょう)の地には、青い紫陽花と赤紫の紫陽花が咲く場所がある。無明はよく邸を抜け出して、ひとりで見に行ったりしていた。 「白笶、紫陽花好きなの?俺、あの花を見てるとなんだか懐かしい気持ちになるんだ。憶えてる? 紅鏡の点心の店で貰った、紫陽花の菓子のこと。あれはね、俺が頼んで作ってもらった菓子なんだ」  それが意外と人気になり、いつの間にか商品化されたのだ。  桜の花や桔梗、山吹や金木犀も好きだが、紫陽花はなんだか特別な感じがした。 「俺、紫陽花が一番好き。この花窓から見える景色も好きかも」 「うん、知ってる······」  え? と無明は良く聞こえなくて、首を傾げる。囁くように呟かれたその声は、どこまでも優しいものだったことだけは分かる。白笶が少しだけ笑っているように見えたから。 「風邪を引く。これを羽織って?」  花窓に手をついて眺めている無明に対して、少し厚みのある布を肩から掛け、白笶は困ったように言った。  後ろに立っていてもなんの警戒もなく、ただ雨に濡れる外の景色を楽しそうに眺めていた。  あんなことをした後なのに、どうして、また、そうやって無防備に自分の前に立つのだろう。信用されているのだと思うと、あの時の自分を殴ってやりたい。  茶を用意しようと白笶が無明に背を向けたその時、その足がふいに止まる。 「あのね、こうすると、心臓が痛いのが治るって白冰様が教えてくれたんだけど······なんか、違う気が、」  肩に掛けてもらった布がばさりと足元に落ちる。無明は自分でやっておいて、今更なんか違うと眉を顰める。白笶は何も言わずに俯いたままぴくりとも動かない。  白冰が教えてくれたこと。 「その痛みを消すには、同じようなことを白笶にしてやれば解消されるよ」   なので、白笶が自分に背を向けるのを見計らって、無明は後ろから抱きついたのだ。  あの時のように本棚もないし、壁も近くにないのでそれしか思い浮かばなかった。  その細い指は白笶の薄青の衣の胸元当たりを掴んでいて、ぴったりと背中に貼りつくように身体を寄せていた。  そしてようやく気付く。白笶の心臓がどくんどくんと早鐘を打っていることを。握りしめている指先に、そっと手を重ねるように白笶の手が置かれた。  白笶の手はあたたかい。  無明はこの手が好きだった。 (治るどころか、なんか、逆に、)  その早鐘が移ったのか、白笶の背中に無明の熱が伝わって来る。離れるに離れられなくなり、どうしたらいいか解らず、顔を背に埋める。 (俺······もしかして、)  この感情がなんなのか、頭の中で整理しようと思ったその瞬間、無明の視界が真っ暗になった。

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