107 / 141
4-22 文に託した想い
「ちょ、ちょっと待って。そういうのは慣れてないのでやめて欲しいんだけど」
拝礼を終え、顔を上げた藍歌 は、首を傾げて見上げてくる。逢魔 は首を振って、珍しく焦っていた。
無明 からの命は、届け物を置いて来るだけ、というものだったのに、まさか本人に出くわすとは思いもしなかった。
「鬼神 、逢魔様。私の話を聞いてくださいますか?」
そんな逢魔のことなど露知らず、藍歌は小さく笑う。そして縁側に置かれた文と小袋に視線を落とす。
どちらも手に取り、文を広げて少し悲し気な表情を浮かべる。
「無明からね。あの子は、気付いてしまったのね。私が、あの子が神子の魂を持つ赤子だと知っていて、隠していたことに」
「光架 の民の役目は"記録"すること。神子の証であるあの印に気付かない方が不自然だった。当然、俺の事も知っていて、知らないふりをしていたんだよね、あなたは」
無明が生まれたばかりの頃、逢魔は黒い狼の姿でこの邸に入り浸っていたのだ。もちろん、邪悪なものから無明を守るために。
生まれたその瞬間から、強い霊力を持ち、それを狙った妖者が押し寄せてきた。それは宗主によって祓われたが、その後は逢魔が領域結界を張って守っていた。
藍歌はその黒い狼が赤子の傍にいても、追い払うことはなかった。それが何者かを知っていたからだ。
「私は、あの子が普通の子として、平穏に生きてさえくれればいいと、愚かにも思っていたのです。ここで、ずっと一緒に笑っていられたら、それで良かったのに」
「ごめんさない。俺は、逆だったよ。俺は神子を取り戻したいと思ってた。記憶がないのは、なにかの手違いで、きっかけさえあれば戻ると」
けれども間違っていた。
最初から、そんなものは消え失せてしまっていた。あの日、晦冥 の地で邪神を封じた日に、消滅したのだ。それでも。
「それでも、あなたの子は、神子だった」
同じ言葉をくれた。同じ魂を持つ、違う存在。
藍歌は逢魔の髪に飾られた赤い髪紐を見つけて、目を細めた。
今の逢魔は細くて長い髪を後ろで三つ編みにしており、その先に蝶々結びで赤い髪紐を結んでいた。ずっと昔、神子と一緒にいた時にしていた髪形だった。
「逢魔様。どうか、あの子を、無明をお守りください」
「もちろん。それにね、神子の傍には華守 もついてる。ついでに金虎 の公子と信頼できる従者も、ね」
小首を傾げて逢魔が言うと、シャランと耳を飾る銀の細長い飾りが涼しげな音を立てた。
ふふっと藍歌は安堵したように明るく笑みを浮かべる。それを見て、逢魔もほっとする。
無明によく似たその顔で悲しげな顔をされると、どうして良いか分からなくなる。気を取り直して、小袋を指差す。
「それは、お守りみたい。肌身離さず持っていて? 紅鏡 は安全ではないから」
「やはり、この地に、この中に、······裏切り者がいるのですね」
「まだはっきりとはわからないけど、用心するに越したことはないよ」
はい、と藍歌は頷き、鶯色の可愛らしい小袋を胸元で握りしめた。自分がここにいることで、無明が窮地に陥らないかだけが心配だった。
「逢魔様、無明に伝えてもらえますか? 私に何かあっても、あなたは、この国の神子であることを忘れないで、と」
「······わかった」
本当は。
本当は、そんなことを伝えたくはない。もしものことなど、不安にさせるだけだ。
しかし、なにかあった時に揺らがないように、藍歌は決意せざるを得なかった。自分の事など、置いて行けと。
逢魔が去った後、文にもう一度視線を落とす。文にはこう書かれていた。
"――――母上、身体はもう回復しましたか? 風邪など引いてませんか? 俺は、碧水 の地で元気にやってます。
白群 の一族の人たちはみんな良い人たちばかりで、友達もたくさんできました。外の世界は見たことがないものばかりで、見るものすべてが珍しく、俺の好奇心を満たしてくれます。
もう話は聞いているかもしれませんが、俺はどうやら神子だったようです。母上はきっと、知っていたんですよね。俺を守るために隠していた。
そう、俺は思っています。
あの邸での日々は、俺にとって幸せな時間でした。母上とふたりだけだった、あのなんでもない時間が、今はとても恋しいです。
自分の使命なんてよく解らないけれど、俺は俺のやり方で、歩いて行きます。母上はどうか自分の身を、今以上に大事にしてください。俺の事は心配しなくても大丈夫。俺の隣にはものすごく頼りになる人たちがいるし、竜虎 も清婉 もいる。
母上から貰った真名と同じ名を、ある人が口にしました。それを聞いた時、俺は生まれた時から神子だったんだと知りました。何の記憶もないけれど、確かに俺は、神子だった。
でも、母上が俺の母であることは間違いないし、変わることはない。ずっと、これから先も、俺の母上でいて欲しい。俺が帰る場所であって欲しい。だから、なにも悔やむことはないし、謝って欲しくもない。
俺は、母上が大好きだし、この旅が終わったら、一緒にたくさん話をしたい。あの縁側で、笛と琴を奏でたい。それまで待っていて欲しい。
必ず、ここに戻って来るから。"
藍歌は頬を伝う涙を拭うことも忘れて、文を丁寧に折り畳む。どうか、無事に戻って来て欲しい。その顔を見せて欲しい。その時が来たら、話したいことがたくさんあった。
瞬く星々に願う。
どうか、あの光が闇で覆われることがないように、と。
ともだちにシェアしよう!