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6-7 ひとり巡る旅路の途中で

 姮娥(こうが)の邸を後にした光明(こうめい)は、少ない荷物を右肩に背負って竹林の中を歩いていた。  最小限の衣類と小刀などの道具や保存食と、無理矢理持たされた必要以上のお金が入った(一、二年は働かなくても良さそうな)財嚢(ざいのう)。  身なりは白い上衣下裳に黒の帯、姮娥の公子とわかる藍色の羽織を纏い、薄茶色の細い髪の毛を頭の天辺で青銀色の髪留めで括っている。  大きめの瞳は深い灰色で、容姿はどちらかといえば少年にしては端正で可愛らしいが、どこまでも無表情なためかなり勿体ない。背は同じ年の男子の中では平均的な高さだった。  黎明だった頃は暁明(きょうめい)とよく似ていたが、今は誰が見ても聖明(せいめい)の子だと解るような容姿である。その違和感に、光明は未だ慣れていない。  泉に映る顔は他人で、これは自分だったと気付くまで間があるのだ。  竹林を抜けるまで低級の妖者の相手を何体かし、上級の妖鬼を倒したおかげか、途中からはちょっかいをかけてくる者もいなくなった。ここから山間部へと入り、その先は碧水(へきすい)の地となる。 (まずは宵藍(しょうらん)、君に逢いに行く)  こんな短期間では目覚めてはいないだろう。けれども、彼の地でその魂は眠っているはずだ。晦冥(かいめい)の地が、あの大戦の後にどうなっているのかも見届けたかった。  逢魔の情報を集めつつ、碧水経由で紅鏡(こうきょう)に入ることにした。  数日して、碧水の地へと辿り着いた。十五年ぶりに訪れた地は、最後に見た景色からほとんど変化はなく、穏やかな水路が流れる市井(しせい)に眼を細める。  賑やかな屋台。商家。ゆったりと行き交う舟に視線を向けながら、白群(びゃくぐん)の邸へと向かう。  霊山の麓。湖水の上に建てられたその邸は幻想的で、いつ見ても美しかった。宗主と公子たちに形式的な挨拶を交わし、数日滞在する旨を伝えると、快く邸のひと部屋を貸してくれた。  光明が旅をしていることは、どうやらすでに他の一族に知れ渡っているようだ。暁明(きょうめい)が宗主たちに伝えたのだろう。  通された別邸の部屋で、ひとり、ふと花窓の先に広がる景色が目に入る。渡り廊下の下に広がる湖水は半透明で美しく、漂う睡蓮の花が色を添える。  ここは宵藍(しょうらん)と逢魔の三人で滞在していた時の部屋とは違う場所で、湖水の上のようだ。三人がいた別邸の部屋は湖水が途切れており、庭があった。  あの部屋でなくてよかった。  正直、もしひとりであの部屋にいたら、あの日々を思い出して一層虚しくなりそうだった。だから、この部屋でよかったと安堵する。  荷物を部屋の隅に置き、文机の上に書物を広げる。そこには綺麗に一行ずつ縦に真っすぐ書かれた文字が並んでおり、光明が数年前から書き綴っている日記のような書物だった。  もうすぐ、物語は終わる。  宵藍や逢魔との出会い、晦冥崗(かいめいこう)でのこと、最期に見せた笑顔の意味も、これを書き終えたらなにか解るだろうか? 「黎明(れいめい)····ごめんね、」  どうしてあんなことを言ったのか。  ごめんね、の意味が何度あの時のことを思い出してみても解らない。神子を守って傷付いたことを言っているなら、華守(はなもり)として当たり前のことをしただけ。しかし、それ以外の理由が思い当たらない。  けれども今更そんなことを、宵藍が言うだろうか。なにか、違う気がしてならなかった。  一刻後、最後の文字を綴り、長い物語のような日誌は完成する。気付けば外は夕焼け空に染まっていた。  真っすぐに伸びたままの背は、少しも疲れていないようで、首だけが花窓へと向けられる。 (確か、碧水には蔵書閣があったはず。この書物はそこに置こう)  いつか、また違う存在になっても、そこに在り続けるように。  あの日を、忘れないように。  翌日、本の森ともいえる蔵書閣に赴き、こっそりとどこかの本棚に紛れ込ませる。もはや数えきれないほどの棚と書物の中、誰かの目に留まることはまずないだろう。  碧水では逢魔の情報はほとんど得られなかった。金眼の青年に二年ほど前に命を救われた、という老婆からの話だけ。だが、それだけで十分だった。 (逢魔はちゃんと約束を守っていた)  宵藍との約束事のひとつに、人間を傷付けないというものがあった。できることなら、助けてあげて、守ってあげてという、願いも。  幼い頃から一度もそれを破ったことはない。今も、それは変わっていないようだ。  光明は碧水の地を後にし、次の地である紅鏡(こうきょう)へとその足を向けた。 ****  葉桜になる前に、あの桜の木を見に行こうと思っていた。  紅鏡の地を烏哭(うこく)から取り戻した後、少しして宵藍と植えた桜の木の苗。もう二度と、この地を戦火には晒さないという誓いを込めて。  紅鏡を見渡せる丘の上に、それはしっかりと根を下ろしていた。  光明は、まだ自分の背と同じくらいしかない、細いその幹に触れる。枝を飾る薄紅色の花は疎らだが、いつか大木となり、見上げるほどになるだろう。霊木になるには長い年月が必要だ。今はまだ、小さな蕾と同じ。それでも。 「それでも、いつかまた、君とここで一緒に見上げることができると、俺は、信じてる」  触れたままの指先を滑らせ、花のひと房を撫でる。遠くに見える晦冥(かいめい)の地は灰色の雲がかかっており、あの場所だけずっと薄暗かった。  紅鏡の地は果てまで青い空が広がっており、余計に桜の花びらが色付いて見えた。  紅鏡の地では、晦冥(かいめい)の地との境で起こっていた厄介な怪異を、金眼の青年が笛を吹いて鎮めたという話を市井(しせい)の民から聞いた。  一年前に、逢魔はここにいたのだ。  どうして聖明たちは、この情報を得られなかったのだろう。  ふと、そんな疑問が頭を過るのだった。

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