155 / 165

6-16 槐夢

 姮娥(こうが)の少女と金虎(きんこ)の少年が去った後、少陰(しょういん)逢魔(おうま)は大きく息を吐き出す。 「(わらわ)らは、一体、何を見せられたのじゃ? あやつら、無自覚な上に青臭すぎて、思わず叫びそうになったぞっ」 「あはは······俺に当たられても困るんだけど?」  逢魔(おうま)も頬を掻きながら苦笑を浮かべる。 「ま、とにかく、姐さんの心配の種がひとつ解決したってことで、」  まあのぅと少陰は上機嫌で、腰に手を当て、短い足で仁王立ちしている。それよりも! と勢いよく振り向く。りんりんと鈴が鳴った。驚いた猫たちが一目散にその場から去って行く。動物は敏感なので、目に見えない存在にも反応してしまうようだ。 「次は光焔(こうえん)に行くと聞いた。朱雀、老陽(ろうよう)。あやつは曲者じゃぞ。神子が心配じゃ······ああ、あやつの顔を思い出すと、破壊衝動が抑えられなくなるっ」 「ああ、まあ、わからなくもない、かな。さすがの無明(むみょう)も引くんじゃないかな、」  それくらい、老陽は曲者というか、人との距離がどうかしているのだ。逢魔は無明の絶対死守を心に誓う。 「逢魔、神子をくれぐれも頼んだぞ。今生の烏哭(うこく)の動きはどこかおかしい」 「そうだね、気を付けるよ。姐さんも、気を付けて。四神との契約を結ばせている本当の理由がなんなのか、神子をどうするつもりなのか、なんにも解っていないんだから」  あと数日後には玉兎(ぎょくと)を離れる。懐かしいこの地は、逢魔にとって、あるはずのない故郷のようなものだった。 「俺は、約束を守るだけ」  始まりの神子である、生みの親と、育ての親である宵藍(しょうらん)との約束を、守るだけ。そして、新しい約束を無明から貰った。 『必ず、無明の許に戻ること』  約束の証は、逢魔の三つ編みの先に結ばれている。赤い髪紐。いつだってそれが、あの日の誓いを思い出させるだろう。  先程まで宙を覆っていた天燈(てんとう)の橙色の灯りを思い出す。幻想的なその光景は、逢魔の目にも焼き付いている。無明が放った物もきっとその中にあったはずだ。  どうか、その願いだけでも叶いますように。  他の願いなんて聞かなくていいから、どうか。  そんな独りよがりの馬鹿げた願いを込めて、逢魔は薄暗闇の中で光る下弦の月を見上げるのだった。 ****  夏の日差しの中、土の上で忙しなく列をなして動き回っている蟻の群れ。深いのか浅いのかもわからない小さな穴に、何かを運びながらどんどん流れ込んでいく。誰かのために運ばれたそれは、その誰かを潤す糧となる。  夜。少しだけ外の空気が暑さを忘れ、心地の良い風が部屋に入ってきた。 「虎珀(こはく)様、文が届いてましたよ」  従者の纏う黒い衣の中でも、襟首に近い上の方に太陽のような白い模様が描かれた衣を纏う彼は、公子の中でも長男である、自分のためだけに存在する従者である。  護衛でもあり、なんでもこなす万能な存在。術士としても重宝されているので、妖者退治にも共に赴く。常に主の傍に控え、守るのが仕事である。 「ありがとうございます。文など珍しいですね、」  虎珀は手渡された文を受け取る。同じ紫苑色の瞳をもつ従者の彼は、紅鏡(こうきょう)生まれの青年である。  五つ年上の青年は要領がよく、人を惹きつけるなにかを持っていた。常に穏やかな虎珀とは正反対で、基本賑やかしい。自然と彼の周りには人が集まってくる。  けれど知っている。  それらは彼にとっては、ただの有象無象であることを。 「蘭明(らんめい)が亡くなったそうです」 「あのお嬢さまが? 残念ですね、数少ないお友達だったじゃないですか、彼女」  どこまでも明るい声で彼は言う。彼にとっては残念でもなければ、同情心さえもないだろう。そういう人として不完全な所が気に入っている。 「まあ、自業自得ってやつじゃないですか?」  浮かべた笑みはどこまでも無感情。 「(るい)、この世に数えきれないほど存在する言葉は、選ぶためにあるんですよ」 「はいはい、そうでした。申し訳ありませーん」  累と呼ばれた青年は、叱られた子供のように口を尖らせる。虎珀はそれに呆れるでもなく、開いた文を綺麗に畳むと、そのまま目の前にある蝋燭の火に翳した。  じわじわと侵蝕するように燃えていく文。送り主は、姮娥(こうが)の一族の、宗主の次女からだった。  文にはあの地で起こった悲劇が綴られていたが、彼女がその主犯であったことは書かれていなかった。彼女の名誉でも守ったつもりだろうか。 「今度はどんな面白いことを考えたんですか?」 「面白い、かどうかはさておき、順調に事は進んでいますよ」  その表情はどこまでも穏やか。 「すべては槐夢(かいむ)。儚いもの。その象徴が消え失せたら、あなたならどうしますか?」 「意味が解らん」  ふふっと虎珀はその答えに笑みを浮かべる。それは馬鹿にしているのでも、呆れているのでもない。清々しいほど嘘偽りのない彼の回答が、面白かっただけ。 「蟻どもの群れは、掃っても掃っても湧いて来る。それを束ねる王たる者は、やはり蟻だと思いますか?」 「蟻の王は蟻だろう。それ以外でもそれ以下でもない。っていうか、それとさっきの問いとなんか関係あるわけ?」 「私は、そのすべてを踏み潰したい」 「最初からそう言え。回りくどい。しかも適当にはぐらかしただろう?」  累はやれやれと肩を竦めて主を見下ろす。そんな大柄な態度をとっても、目の前の者は腹を立てることはない。  敬愛する主のそのすべてを、知っている。  その優越感が、たまらなく心地好い。  蟻の話はさっぱり解らなかったが、その望みはよく解った。  蝋燭の火が揺らぐ。  掻き消された光の中で、薄闇の中で、その美しい首筋に口付けをした。

ともだちにシェアしよう!