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   ◇◇◇  一人でいたくない。  一人でいると己の恐ろしい罪業が途方もない幽鬼に化けて襲いかかってきそうで、怖くなる。  特に夜の淋しさはたえられない。  降りしきる雪のように心に染み入っては哀しい過去を見せつけ、罪悪感でいっぱいの碧斗の胸を(こご)らせる。事実、父を殺したあの日以来、碧斗は喉が凝って一言も声を発せなくなっていた。 『いや。悪いことをしたなんて考えるものじゃない。お前はよくやった。本当によくやったんだ。お前はお母さんとおばあちゃんの仇を討った。そんなこと、そうそうできるもんじゃないんだぞ。お前ほど偉い男の子は他にいない。碧斗ほど、勇気のある男の子は、他にいないんだ。だからお前は俺の誇りだ。俺の、生甲斐だ。おじいちゃんは碧斗のおじいちゃんで本当に良かったと、心から感謝しとる』  そうだろうか。そうはとても思えない。  ぼくは人殺しだ。親を殺した、永遠に許されてはならぬ者だ。  父親を殺す瞬間を夢に見ては魘されて、夜中に目覚めて涙を流す。その度に力強く励ましてくれた祖父も三年前に亡くなった。以来、底の抜けたような孤独の海で碧斗は一人、頼りなく漂っている。  父を殺した罪業は何年経ても消えも減りさえもしない。それが負い目に感じられて他人と深く関わることもしない。  救ってほしいという祈りを天に聞かせる勇気はなく、諦念の淵で淡く過ごす日々は虚しく、生きながら鉄柵の中にいるようだ。  そんな耐えがたい狂気を忘れたくて、二年前に身体を売り始めた。売り専の賞味期限は二十五歳という世界で二十六で始め、今年は二十八。数えきれない男達の相手をしたが、セックスを快いと感じたことは一度もない。  祖父の幸雄が死んでなんらかの箍が外れたのか——いや、どちらかといえば、誰かに抱かれている間は一人にならないですむのがいいのだろう。  だから誰でもいいのだ。一緒にいて、寒々しい孤独感と罪悪感とを忘れさせてくれるのならば、誰でもいい。  この歳で売り専をしているなど元から董が立っているが、まだ買ってくれる客がいるから辞める気はない。たとえ今の店で用済みになっても、もっと年増好みの客が集まる店に移ればまだまだ続けられると思っている。この世にはゲテモノ食いが一定数いるものだ。そんなありがたい男達に買ってもらえるのならばレイプでいい。こんな身体、二束三文でいい。  犯されるセックスは痛い分だけ麻薬みたいに罪悪感を忘れさせてくれるからいい。  失声症を馬鹿にされても、性戯が下手だとなじられてもかまわなかった。セックスの快感なんてなくていい。なんならSMでいい。  だからやさしいのは好きじゃなかった。男に凌辱されることで自分の価値を貶め、汚し、傷めつけるために碧斗は男娼をしていた。  不意に、目尻をなぞられる。  感触の柔らかさに困惑して瞼を震わせると、今度は額をそっとさすられた。前髪を払ってくれたのだ。その羽根のような軽い感触に碧斗は戸惑った。 (誰…)  祖父は心根のやさしい男だったが、昔気質だったからスキンシップはなかった。だからこんなふうにやさしく碧斗を撫でてくれたのは、もう本当に遠い昔、母と祖母だけだ。  記憶の残像を追いかけて、重い瞼を必死に開けようと試みるが、睡魔はなかなか去ってくれなかった。碧斗はふっと吐息した。  また目尻を撫でられる。  ああ。思い出した。この客はやさしかった。にわかに困るほどに。  セックスの間もどう答えればいいのか分からないほどこちらに気遣ってくれて、自分にはもったいないいたわりのある情事を施してくれた。  もしかしたら夢だったのかもしれないとも思ったが、今まさに加わっている現実的な感触が夢ではないと碧斗に伝えてくる。昨夜はこの男に貫かれ、まだるい疲労の中で眠りについた。  今度はむき出しの肩を撫でられる。  いつも乱暴に扱われることばかりだから、こんなにやさしい感覚は馴染みがなくて怖くなる。  まるで壊れ物みたいに扱われるのは嫌だ。やさしくされてはそれだけで罰が当たってしまう。もっともっと乱暴に扱ってくれないか。オレはいたわりを貰うに値しない人間なのだから。  少しずつ思考が覚醒し、現実的な感覚が戻ってきて、うっすらと目を開けた。誰かの胸元が視界に入る。それからゆっくりと視線をあげれば、こちらに向けられている男のまなざしとかち合った。  見つめられていたと分かって首をすくめた。ホストなのに客より先に寝ていたのは店の規律違反である。 「……?」  頭の下に固い感触があって、何かと思えば腕枕だ。いっそう恥じ入る気分になる。  男の腕はスポーツで鍛えあげているような頼もしさだが、こうも重みをかけていては痺れさせてしまうだろう。醒めきらない思考で上体を動かして離れようとすると、手のひらで肩を制された。この男の手は大きくて、すらりとしているのに動くと骨張る色気がある。 「まだ寝ていていい」  遠慮して起きあがろうとすると、またも上体を布団へと押し返される。 「まだ夜中だ。疲れたろうから横になっていなさい。もう何もしないから」  その響きにはしっとりとしたぬくもりがあり、なんとなく安心した碧斗は言うことを聞く気になった。  おとなしくすると腰を抱かれ、二つの身体が密着する。  男の性器にふと肌が触れた。男娼として慣れきっている物で、しかも今の男のそれはまったく萌していないのに、不覚にもどきりとした。この男根に貫かれていたことが妙に生々しく思い出され、気持ちが落ち着かなくなる。碧斗と違って男の肌はあたたかく、むしろ風邪かと思うくらいに熱い。  碧斗の腰から腿に沿って男の手がゆっくりと愛撫し始める。安らぎのあるタッチに不思議な充足感がじわじわと表皮から沈んでいって、肉体の内側をぬくめた。  行為の後にこれほど糖度のある時間を持つのもまためったにない。たいがいの男は碧斗の美貌を誉めはしても、不感症と分かった時点でやさしくする必要などないと判断して、乱暴に扱い始める。それに快楽を感じる者もいる。碧斗もそれでいいと考えていた。むしろ、そうされることを望んでいた。 「怖い夢を見たんだろう?」  碧斗はきょとんとして男を見つめた。ポーカーフェイスを纏ったような捉えどころのない顔だ。この男はバーの時からずっとこんな、半分スッとぼけたような呑気な表情をしている。  確かに夢を見ていたと、碧斗は頷いた。父を殺した夢。祖父になだめられていた夢。いつもの悲しい夢――――。 「子供みたいにしゃくりあげていた。魘されているのかと思って、何度か声をかけてみたんだけど。きみはなかなか起きなかった」  通奏低音の響き。こんなに落ち着きのある声で子守り歌を聞かされたら万年寝不足の自分はきっともつまい。  こういう男は性格も落ち着いていて穏やかなのだろうか。興味をそそられてその顔にまじまじと視線を這わせてみる。ちょっと前に大河ドラマの主役に抜擢された人気俳優に似ていた。 (どこへいってもモテるだろう)  そんな男が客だった今夜はラッキーだ。  久遠の頬が困ったように歪むので、碧斗はまた首を傾げた。 「そんな生真面目そうな顔をして、いったい何を考えているの?」  小さく喉を鳴らす。  目の細まった甘いマスクに、水面を打ったように心が揺らめくのを碧斗は感じた。…まずい。自分はきっとこういう男に弱い。  多くの客は碧斗の筆記に苛立ち、辛気臭いと言ってなじる。だがこの男は違った。筆記の間も余裕のある態度で待ってくれて、まるで音声で伝え合うみたいに会話ができた。  セックスではこちらに負担をかけないように気遣い、ことが終わってからもぐったりと疲れ果てた碧斗の身体をタオルで拭いてくれたり、あれこれと始末してくれた。  その後のシャワーでは、「滲みるところはないか」などと訊ねたりして、ずいぶんといたわってくれもした。  どれも押しつけがましくなく、温厚な内面をさりげない行動と声かけで示す男だった。  大樹を思わせる、ちゃんとした大人だ。見た目も三十代半ばといったところ。  上背のある締まった肉体を持ち、英国紳士のような落ち着きもある一方で、さわやかな明るい性格も垣間見せる。  上等な男だ。ただしこの人には恋人がいる。左手の薬指の指輪がそう物語っている。自分を買ったのも、ただの社会勉強だと言っていた。  ならばこの人とは一度きりだ。そもそもこういう上等な男が碧斗を二度買ったためしは今までに一度もないのだ。性戯の拙さに辟易するのだろう。  だから心を残してはならない。  これ以上、心惹かれてはならない。  一晩の客は一晩で忘れる。そうでないと他の男に抱かれるのがつらくなるから。  そんなふうに物憂く考える碧斗の顔を、再度、久遠が覗き込んだ。 「綺麗な目をしているな。そんな目を見ると、また抱きたくなる」  柔らかなキスが肩の端に落とされた。  官能的な科白(せりふ)をよそに、劣情はもうすっかり理性の奥にしまってしまったようなスタンプキスだった。もうそれ以上は碧斗に求めようとはせず、久遠は碧斗の身体をかかえ込むようにして抱きしめた後、やがて深い寝息と共に眠った。

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