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 エスクワイアは表参道から渋谷方面へ二筋ほど入った路地に並ぶ、雑居ビルの地下にあるゲイバーだ。カウンター席十、四人掛けテーブル三つのこじんまりとした大きさで、シックな鈍色のモノトーンを基調とした落ち着いた雰囲気が碧斗は気に入っている。  ドアに入ると「いらっしゃい」という声かけと共にバーテンダーの矢上が奥のカウンター席を勧めてくれる。いつものことだった。 「何がいい?」  他の客にカクテルを出した後で、唇でゆるやかな弧を描いてそう問いかけてくるのも、また常だった。それで碧斗は都会の喧騒の中を歩いてきた緊張感から、ほっと人心地つく。  五月に入ったばかりだというのに今日は夏のような暑さで、ビルに囲まれた都会は夜でも熱気がこもり、駅からここまで来る道すがら碧斗の全身も汗ばんでいた。 『ジンフィズお願い』  そう書いたメモを見せた。 「そうだね。今日はさっぱりしたのがよく出ているよ。サイダーで甘めにしようか?」  好みの味を勧められて、ありがたく同意した。  五十代と推察される矢上は長身のうえ相貌も整っており、醸し出す雰囲気にもトークにもいぶし銀の魅力がある、どこをとっても有能なバーテンダーだ。作るカクテルや軽食はどれもおいしく、シェイカーを振るさまもきまっている。  ここに通い始めてまもなく、彼が性行為でタチだと聞いた碧斗は、危うく恋をしかけた。矢上に長年連れ添う恋人がいると分かって、すぐに思いとどまることができたが。  恋はしない。絶対にしない。その自戒を破らずにすんだ。  碧斗が恋愛をしない決心には理由がある。  恋愛をしてまかり間違って両想いにでもなれば、自分がどんな人間なのかを相手に知られることになる。自分が人道に(もと)る殺人者である事実を、愛する人の前にさらすことになる。自分は親殺しをした殺人者なのだと。そう恋人に知られる苦しみだけは、一生味わいたくない。殺人者に恋は似合わない。だから人を好きにならないと決めている。 「待たせたな」  ジンフィズを半分ほど飲んだ頃、磯崎がやってきた。  歌舞伎町の中でもひときわいかがわしい通りでお定まりのようないかがわしいホストクラブを経営している、四十がらみの男だ。週に一度はハイファンで碧斗を買ってくれる常連客でもあった。  そこそこ見場の良い男なのだが性格は軽薄そのもので、独り善がりで乱暴なセックスしかせず、しゃべれない碧斗を面白がって酷い暴言も吐く。最近ではスカトロじみたプレイもするようになって碧斗の負担は増すばかりだが、それでも自分を抱いてくれる貴重な存在だと思って碧斗は付き合っている。  今日はここで待ち合わせしてハイファンへ同伴する約束を交わしていた。  こういうことはこれまでにもあって、磯崎を良く思わない矢上はけしていい顔をしない。だから他店で待ち合わせようと碧斗は頼むのだが、矢上や碧斗のそんな否定的な反応を磯崎はかえって面白がっているようで、ここが便利だからと譲らない。  自分と碧斗にと磯崎が辛口のギブソンを注文する。ギブソンでいいのかというまなざしを矢上が送ってきたので、かまわないと碧斗は頷いた。  ギブソンは嫌いではないが、アルコール度数が高いのと磯崎と飲んでもおいしくないという理由から今は気が進まなかった。かといって、それであれこれと磯崎と筆記で会話をするのもわずらわしい。碧斗は差し出されたグラスからちょびちょびと喉に納めた。 「そろそろ行くか」  ギブソンを呷った磯崎がさっさと立ちあがる。碧斗のグラスにはまだ半分ほど残っているのだが、磯崎はそんな他人の状態にはもとから斟酌しない男であった。  会計で矢上と目が合う。心配そうなまなざしに胸を射抜かれる思いがした。  矢上と碧斗との付き合いはもう五年近くになり、碧斗の父親ほどの年齢でもあるせいか、矢上は磯崎と付き合っている碧斗の身を折々に案じてくれているのだ。 (そんなやさしい目、しないで、矢上さん)  むしろ今は、これ以上ないくらいに蔑んで欲しかった。  磯崎などを相手にしている自分を思いきりなじって欲しかった。

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