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第4話

 成績はずば抜けて良い訳じゃないし、運動だって人並みにしかできない。人に言えるような特技だってないし、至って平凡な人間だ。ただ、少し恋愛に奥手なだけの。 「桐江くん。先生がね、数学の課題皆の分集めて来てって…」  ぼんやりと窓の外を眺めている間に、いつの間にか授業が終わっていたらしい。控えめに声を掛けてきた女子生徒は目が合うと申し訳なさそうに目を泳がせた。 「ごめん。すぐ持っていくよ」 「あ、それでねっ、もう皆の分集まってるから…」 「え?…ごめん、ありがとう」 「ううん!」  慌てて立ち上がると確かに教卓の上には全員分の課題が積まれていた。申し訳ない事をしたな、と思いながらもとにかく課題を運ぶ事にした。広げていた教科書もそのままに、そこそこ重量のある課題を抱え教室を後にした。 * 「失礼しました」  職員室に課題を届けた後、くっと伸びをしながら教室へと繋がる階段を登る。 「桐江さん」 「っ!」  はたと足が止まる。上から教材を片手に降りて来たのは紛れもない鷹村本人で、大袈裟なくらい自分の肩が揺れた。 「桐江さん、昨日はすみませんでした」  距離を詰めて数段上から見下ろす鷹村は頭を下げる。周辺には誰もいなかったが、側から見れば後輩に頭を下げさせる先輩なんて変な噂が立ちそうだ。 「い、いいから…顔上げてくれ」  慌てて顔を上げさせたが、鷹村は眉を下げて視線を落としたままだ。どうやら俺はこの男のこの顔に弱いのだろう。本当に申し訳ないと思っている顔をするから許さないなんてできる訳がない。もっとも、それが嘘だとは思えないから余計タチが悪いのだが。 「もう同意無しであんな事しないんで、もっと桐江さんの傍にいさせてください」  そっと手に触れられる。その手が冷たくて、少し震えているのがわかった。こんな俺に、こんなに必死になってくれる誰かがいるなんて。自然と頬が綻んで肩の力が抜けた気がした。 「いいよ。俺も…鷹村と話すのは楽しいから」 「っ!ありがとうございます!」  ぱあっ、と効果音でも付きそうなくらい表情が明るくなる鷹村を見て思わず笑ってしまった。 「桐江さん、この後もう帰りですか?」 「え、うん」 「じゃあ今日一緒に帰ってもいいですか?」 「いいけど…」  SHRが終われば後は帰るだけという状態で、鷹村も教室へ戻る所だったのだろう。鷹村は「またあとで」とだけ会釈して上機嫌でその場を後にした。 ✳︎ ✳︎ ✳︎  下駄箱で靴を履き替えた後、入り口に鷹村の姿が見えて思わず立ち止まる。正確には鷹村ともう一人、隣に小柄で可愛らしい女子生徒がいた。少し頬を染めた様子の女子生徒と無表情の鷹村。暫くそのまま眺めていると、女子生徒は走り去ってしまった。 「…あ、桐江さん!」  振り返った鷹村と視線がかち合ってすぐに鷹村の表情が緩んだ。軽く手を上げてひらひらとこちらに手を振る鷹村は先ほどとは別人のようだ。 「ごめん待たせて」 「全然待ってないんで気にしないでください」  鷹村がこんな柔らかい表情をするのは俺の前だけで、それが少し嬉しいだなんてどうかしてる。 「…さっきの子は?」  聞くつもりはなかったのに、無意識にそんな言葉が口から零れていた。鷹村は「ああ、」と思い出したように口を開いた。 「一応クラスメイトです。話したのは今日が初めてですけど」  きっと先程の彼女の反応を見るに告白だろう。鷹村が俺にしか見せない表情をするのは嬉しい筈なのに、何かが胸に引っかかったようにモヤモヤする。無意識に俯いていたらしい俺の顔色を窺うように鷹村が覗き込む。 「…告白だったんだろ?」 「え?…まあ、はい。好きな人いるから無理って断りましたけど」  その様子から察するにきっとこういった事には慣れているんだろう。別に鷹村が誰に告白されようが俺には関係ないのに、それが面白くないと思った。 「可愛かったのに」  華奢で背が低くてふわふわとした、俺とは正反対の可愛らしい女の子。鷹村の隣に立つのはきっと彼女のような女性が相応しいのだろう。 「俺にとって桐江さんが1番可愛いです。俺の好きな人、先輩だって言ったでしょ。好きです。信じてくれないなら信じてもらえるまで言い続けますから」  両手を取られぐっと距離が縮まる。いくら正門を抜けた後だと言っても数メートル先には下校中の生徒が沢山いる中で、いくら何でもこの距離感は不自然だ。掴まれた手が、触れ合っている指先が熱くて、そこから熱が伝導していくようにじわりと頬が熱くなる。  嘘偽りのない瞳が俺を捉えて逃がしてくれない。逸らす事も逃げる事も許されないみたいなこの状況に、俺の意思は通用しなかった。 「わ、…わかったから、離してくれ…」  辛うじて絞り出した弱々しい声は震えていたに違いない。赤くなった顔も隠せないままでいると、漸く手が解放される。 「…急に突拍子もない事するのやめろ」 「すみません、つい」  再び横に並んで歩き出す。妙に気不味い空気が続く中、前にも後ろにも誰もいなくなった時鷹村がゆっくりと口を開いた。 「桐江さんの家ってどの辺ですか?」 「えっと、この先の駅の近く」 「じゃあうちから近いですね。うちは手前の方です」  お互い徒歩で通える距離らしい。意外にも距離が近かった事に驚いて鷹村を見上げると、凄く嬉しそうな顔をしてるものだからつられてこっちまで頬が緩んだ。 「じん兄ちゃーん!」   駅が見えてきた頃、正面から小学生くらいの幼い男の子がこちらに手を振っているのが見えた。“じん兄ちゃん”と呼ばれた鷹村は、それに応えるように手を振り返している。 「(いく)、凛も。ただいま。今帰りか?」 「うん!お母さんと買い物行ってた!」 「…お兄ちゃんおかえりなさい」  勢いよく鷹村に抱き着いてきた男の子とその後ろから控えめに顔を覗かせる女の子。突然の子供の登場に驚いていると、二人がちらりと不思議そうにこちらを見上げてくる。鷹村は二人の肩に手を添えながら向き直って紹介してくれた。 「桐江さん、俺の弟の郁と妹の凛です」 「こんにちは!」 「こ、こんにちは」 「こんにちは。挨拶できて偉いね」  しゃがんで視線を合わせると、鷹村と同じ色の大きな瞳がぱちぱちと瞬いて俺を捉える。その小動物のような愛らしさに、鷹村が小さい頃はこんな感じだったのだろうかと容易に想像出来てしまう。 「桐江叶です。よろしくね」 「カナちゃん!」 「カナちゃん…?」  キラキラとした瞳で見上げる郁くんと俺のスラックスを控えめに掴んで小首を傾げる凛ちゃん。予想外の呼び方に一瞬驚いたが、何とも可愛らしいネーミングセンスだ。 「こら、失礼だろ」 「あはは、いいよいいよ。可愛いじゃん、気に入った」  二人の頭を優しく撫でてやると嬉しそうに笑ってくれた。 「あら、帰ったのね仁。おかえりなさい」 「母さん、ただいま」 「こんにちは。仁くんの友人で三年の桐江叶です」 「こんにちは。貴方が桐江くんなのね、息子から良く話は聞いているわ。そうだ!会ったばかりであれだけど、良かったら夕ご飯食べてかない?子供達も貴方の事随分気に入ってるみたいだし」  ウキウキとした様子で手を合わせる彼女は、凄く柔らかい雰囲気で正直鷹村とはあまり似ていないなという印象だった。それから招かれるまま家に上がり、夕飯の準備が整うまでリビングでのんびりさせてもらう事になった。 「俺の事良く話してるんだ?」 「…すみません」 「別に謝る事じゃないだろ。驚いたけど、悪い気はしないな」  思えばずっと友人なんて呼べる存在はいなかったから、こうして友人の家にお邪魔するなんて事自体初めてだ。俺の事を好きな男の家に上がるなんて、とも一瞬思ったが家族もいるし問題はないだろう。 「…カナちゃん」 「ん?」  控えめな声に振り向けば、凛ちゃんが俺に向けて絵本を差し出していた。小さい子供の相手なんて慣れていなかったが、意図を察した俺が絵本を受け取ると彼女は嬉しそうに俺の足の間に座った。 「読むの、俺でいいの?」 「うん」  目を輝かせる姿はあまりに愛らしくて、自分に妹がいたらこんな感じなのだろうかなんて思った。物語はよくいる腹を空かせた青虫が沢山の食べ物を食べて成長していくお話。シンプルでいて作者の深い意図に気付かされる物語だ。  どこか懐かしい気持ちになりながら読み聞かせていると、いつの間にか郁くんも隣にいて、顔を上げると微笑ましそうに笑う鷹村がいて。なんだか無性に気恥ずかしくなった。 「ご飯できたわよ〜。ごめんね桐江くんお待たせしちゃって」  丁度絵本を読み終えたタイミングでキッチンの方から明るい声が掛かる。 「いえ、とんでもないです。運ぶの手伝います」 「俺が行きます。桐江さんはそのまま、座っててください」  ご馳走になる身で何もしないのは気引けるが、念を押すような視線に押し黙る他なかった。皿洗いくらいはして帰ろうと思いながら、広いテーブルに並べられていく料理の数々に思わず小さく腹が鳴った。  テーブルに並んだのはメインの唐揚げと豚汁にサラダ、漬物や副菜まで充実していて、最後に温かい白米が差し出された。絵に描いたような完璧な夕食だった。 「遠慮しないで、沢山食べてね」 「はい。いただきます」  唐揚げはサクサクで噛んだ瞬間じゅわりと口の中に肉汁が溢れ出す。美味しくてもう一つと箸を伸ばすと、目の前に座る鷹村と目が合った。やけに嬉しそうに微笑んでおり、何見てるんだという意味を込めて睨んでみたが、全く効果がない様子だ。 「お口に合ったかしら」 「はい!どれも凄く美味しいです」 「良かった〜。おかわりもあるから言ってね」  この日は父親の帰りが遅くなるらしく五人で食卓を囲んでいたが、姉が一人だけの俺とは違って小さい子供がいる食事がなんだか新鮮で楽しい。  漸く食べ始めた鷹村をチラリと盗み見ると、相変わらず所作は綺麗だけれど、一口がかなり大きくて豪快だ。ちらりと覗く赤い舌とやけに目立つ犬歯が目に付いてドキリとして思わず目を逸らした。 「桐江さん!」  食事を終えてそろそろ暗くなる時間帯なので早々にお暇する事になった俺は、名残惜しくも凛ちゃんと郁くんに別れを告げお母さんにもきっちりと礼を言い外に出た時だった。鷹村に呼び止められ暫くぶりに二人きりになった。 「どうした?」 「いえ…なんか桐江さんと二人で話したくて。桐江さんがうちにいるの変な感じで、でもめちゃくちゃ嬉しかったです。正直凛と郁に嫉妬しそうになりました」  ほんのり頬を赤く染めながら真面目な顔付きでそんな事を言うものだから、ちょっと可愛いななんて思ってしまった。 「桐江さん、すみません」 「え?」  俺が笑っていると、ふいにキスをされた。俺は突然の事に動けなくて少し長い触れるだけのキスの後、下唇を甘噛みされる。 「っお前、また…っ」 「ごめんなさい。でも俺もう我慢できそうにないです」  腰を掴まれ離れようにも離れられない。唇に熱い吐息がかかって、少しでも動けばまたすぐに重なってしまうだろう。気を抜くと獣のようにギラついた瞳に呑み込まれてしまいそうだ。 「桐江さん…」  大きな手がシャツ越しに腹部を撫でる。それからゆっくりと上へと進んでいき――、 「んっ…」  胸元に触れた指先に、意図せず小さい声が漏れてしまう。同時に鷹村の手も止まって、我に返った俺は分厚い目の前の体を突き放した。 「あ…すみません。調子に乗りました」 「…か、帰る」 「はい、お気をつけて」  俺は居ても立っても居られなくてすぐに鷹村に背を向け走り出した。

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