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第3話
「桐江さん、おはようございます」
「…鷹村……」
翌日、学校の玄関先で背後から声が掛かる。振り返らなくても俺に声を掛けてくる奴なんてアイツくらいしかいないからわかる。「おはようございます」なんて、教師以外久しく掛けられていない言葉だ。
「朝から会えるなんて嬉しいな。いつもこの時間なんですか?」
「…まあな」
何となく気まずくて顔を合わせずにいたが、鷹村は俺の心中を知ってか知らずか嬉しそうに駆け寄っては俺の顔を覗き込んだ。これはこいつの癖なのだろうか。会話してる時に人の顔見ないと気が済まないのか?
「今日も昼飯一緒に食べませんか?」
「…いや、今日は…」
数センチ先を見上げれば、ほんの少しだけ下がる眉に明らかに残念そうな事がわかる。何だか一瞬だけこの大男に犬の耳と尻尾が見えた気がした。
結局、あれに押し負けて今一緒に昼飯を食べている訳だが、もしかすると自分は押しに弱いのだろうか。
さすが食べ盛り、と言ったところか。昨日は気にしていなかったが、隣では大ぶりの弁当箱に詰められた彩り豊かなおかずを頬張る鷹村に、思わず頬が緩む。綺麗だけれど豪快で、見ていて気持ちが良い。流石に視線に気付いたらしい鷹村は、口に含んだ分を飲み込んでから口を開いた。
「どうかしました?」
「いや…美味しそうな弁当だな、と思って」
「あぁ、食べます?母の手作りですけど」
「いや、いいから…自分で食えよ」
鷹村は唐揚げを一つ掴んでそのまま俺の口元へと差し出した。咄嗟に身を引いたが、断るのは逆に失礼なんじゃないか、なんて余計な事を考えてしまっておずおずとそれを口に含んだ。薄い片栗粉の衣を齧るとじゅわ、と肉汁が溢れ出て程よい味付けの柔らかい鶏肉が口いっぱいに広がって、思わず目を輝かせた。
「……美味い…!」
なんならこれだけで白米一杯いけそうだ。
「桐江さん、美味そうに食べますよね。良かったら今度うち来ます?母さんも喜ぶと思うんで」
「…まあ、そのうちな」
美味い飯をご馳走になるだけなら悪くない。けれどまだ知り合って間もないのに押しかけるのは迷惑だろう。こいつはずっと前から俺の事を知っていたみたいだけれど。
「先輩の好きな人ってどんな人なんですか」
不意の言葉に箸が止まる。俺の記憶の大半を占めるのは初恋の人だ。この四年間全く顔を合わせていなくても、脳裏に浮かぶのは鮮明な彼の表情で。でもきっと好きだったのは俺だけで、彼はまだ幼い俺を慰めてくれただけ。どちらからとは言わない。お互いが求め合うようにして軽いキスをした。
「…難しいな。俺は多分ずっと幼かったから、大人だったあの人が凄く魅力的に見えたんだ。優しくて…」
「嫌だ、やっぱり聞きたくないです」
「は、何だそれ…」
お前が言えって言ったくせに。それくらい言ってやろうかと思ったが、鷹村の表情に言葉を飲み込んだ。そんなあからさまに不機嫌そうな顔、初めて見た。
「まだ、その人の事好きなんですか?」
「……よく分からないんだ」
正直今もまだ好きなのか、それとも憧れなだけなのか自分でもよく分からない。
「…ゆっくりで良いんです」
「え…?」
するりと自然に伸びてきた手が頬に触れる。優しく撫でるように動く手が擽ったくて首を揺らした。愛おしむようなその触れ方に無性に恥ずかしくなってくる。
「忘れられなくても良いです。少しは俺の事、考えてくれませんか?」
淡褐色の瞳が心なしか不安そうに揺れる。そうだ、このまま中途半端な気持ちで鷹村と一緒にいる訳にはいかない。答えを出さないといけない事はわかっているが、もう少しこのままでいたい。鷹村と一緒に居るのが好きだ。俺は無意識に鷹村の手に擦り寄っていた。
「っ、だめだ。桐江さん、一回で良いからキスさせてください」
「へっ?…鷹村?」
はっとして目を見開くと明らかに欲を剥き出しにした鷹村がいた。ギラついた瞳に射抜かれると体が硬直してしまい動けなくなった。
「一回って…お前、待てって…!」
「好きです、桐江さん…」
「――んぅ!」
ゆっくりだなんて言ったくせに、強引さに押し負けてしまうなんて。不覚にも柔らかい唇の感覚が心地良くてされるがままになってしまう。
「…どこまでしたんですか」
「は、…なにが」
「その人と、どこまでいったんですか」
唇が離れて、落ち着く間もなく問い詰められる。
「…キス、だけ」
答えないと離してくれないと判断した俺は蚊の鳴くような声で絞り出した。何だこの羞恥プレイは。けれど油断した俺が悪かった。歯がぶつかるのではないかという程またも強引に口を塞がれて、今度は分厚い舌が口内に侵入してくる。
「むぅっ…!?……ん、ぁ…ふ、うぅ……っ」
歯列を割って狼狽える舌を追いかけられて、ぢゅ、と音を立てて吸われる。上顎を舐められるとゾクゾクとした何かが背筋を走って身震いした。腰が抜けたみたいに全身から力が抜けて鷹村に体を預けてしまう。首筋を撫でる手すら気持ちよくてもう何も考えられない。ただ甘く痺れるみたいな快楽だけが押し寄せておかしくなりそうだった。何度も角度を変えて深く繋がりながら、流れ込んでくる唾液を嚥下するので精一杯だった。
「……っはぁ、はぁ…」
目の前の体にしがみ付きながら浅い呼吸を繰り返す。鷹村の大きな手が少し汗ばんだ頬を包んで、口の端にまた唇が落ちた。
「……えろ」
頭がふわふわして力が入らない。何だこれ、これがキスなのか?こんなの、知らない。
「桐江さん、可愛い…少しだけこうしていても良いですか?」
そっと背中に回った腕が優しく俺の体を抱き締める。身長差は少しあるが体格差はそこまでないと思っていた。けれどこうして腕の中に閉じ込められてしまえば、すっぽりと収まって心地良い匂いに包まれる。
トクトクと少し乱れた鷹村の鼓動を感じる。でも、どうして俺までこんなに鼓動が早いんだ。あんなキスをされても、こうしてくっついていても嫌じゃないなんて。俺はどうしてしまったんだ?
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