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第5話
「叶、久しぶり」
状況がわからぬまま硬直する俺を優しく抱き締めたのはほんのり煙草の残り香のするシャツを着た彼。酷く懐かしい匂いはあの時の記憶を容易に思い出させた。
あの時より少しだけ広くなった肩幅と大人びた顔付き、俺を見据える優しい顔は変わらぬまま、頭を撫でる仕草はまるで弟に対するそれだ。彼の触れ方から他意は感じない。それが少しだけ寂しくて、彼が遠い存在だと思い知らされる。
「晃 さん…どうして…」
彼の突然の来訪は俺の心を動揺させた。大宮 晃。彼は姉の幼馴染みで俺の初恋の人。ずっと忘れられなくて、心の片隅にいた存在。思い返してみれば、別れ際のキスは俺に対する同情だったのかもしれない。
「実家に帰ったついでにね。もしかしたら会えるかもしれないと思って」
会えて嬉しいよ、と続けるその言葉に偽りはないようだった。淡い栗色の髪が彼の動きに合わせて揺れる。薄い縁の眼鏡はあの時と変わらず、彼に聡明な印象を持たせている。
「…お久しぶりです」
「ん?寂しいな、前は敬語なんかじゃなかったよね?」
あの時俺がどんな目で彼の事を見ていたか知っているはずなのに。約四年ぶりだというのに、何も変わっていないのは俺だけで。
「…悪かった」
意を決したような声、肩に触れた手はほんの少し震えていた。
「あの日の事…ずっと後悔してたんだ。あんな事、するべきじゃなかった」
胸の奥がザワついた。わかっていた事だ。彼は俺の事が好きでキスをした訳じゃない。俺が誘って、彼は俺に同情しただけ。ただ、ほんの少し唇が触れただけだ。
「けど、ずっと会いたかった。今でもお前の事は弟みたいに思ってるんだ」
再び優しい抱擁に包まれる。じっと俺を見据える熱い瞳。これが弟に向ける眼差しなのだとしたら、酷く一方的で身勝手だ。
「明々後日までこっちにいる予定なんだ。じっくり話したいから食事にでも行かないか?」
改まって話す事なんて俺にはないけれど、久しぶりなのだから食事くらいならいいのかもしれない。小さく頷くと彼は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。じゃあ今夜は何か予定ある?」
「ないけど…」
「じゃあ十八時に迎えに来るよ」
彼はそう言い残すとひらひらと手を振って行ってしまった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
時間通りに迎えに来た彼は派手な車の助手席に俺を乗せるや否や夜の街を走り出した。運転している彼の横顔はやはり大人びていて、俺には程遠い存在に感じた。
「こうして二人で出かけるのは初めてだな」
俺の視線に気付いたらしい彼は前を見つつ話しかけてくる。基本彼が来る時は姉がいる時がほとんどだったし、よく話すようになったのもほんの数ヶ月の間の事で、当然彼の事を全て知っている訳じゃない。
「うん…」
俯き、膝の上で拳を握る。少しだけ彼の誘いを受けた事を後悔していた。ほんの数十分程走った車は地下の駐車場に停まった。目的地に着いたのかと何の疑いもなく窓の外を見るとエンジンを切った晃が俺に向き直る。
「…叶は恋人いるの?」
「え…?い、ないけど」
カチャ、とシートベルトが外れて座席が傾き、気を抜いて体重を預けていた俺はそのまま座席と共に後ろへと倒れる。
「じゃあ大丈夫だね」
“大丈夫”が何に対しての大丈夫であるのかなんて聞き返したくもないが、流石の俺もこの状況が“まずい”事だというのは分かる。顔の横に晃の手がついて、こちら側へ身を乗り出している。うざったそうに眼鏡を外すと後部座席へと雑に投げた。カシャンと床に落ちる音に、驚いて肩が揺れる。先程までとは空気が一変した。
「…何する気ですか?」
「ん?こうされるのを期待してたんでしょ?期待には応えてあげなくちゃ、と思って」
彼は優しく微笑んだまま慣れた手付きで制服のネクタイを緩め、ボタンを外していく。あまりの手際の良さに抵抗が遅れたが、彼の手を掴んで制止しようとしても成人男性相手に力で敵う筈がなかった。
「これは叶が望んでた事、そうでしょ?」
薄らとほくそ笑む姿は俺が知る彼と全く異なっている。これが彼の本性なのかと思うとゾッと寒気がした。
「こんなこと…っ」
一度だって望んだ事がないと言えば嘘になる。手を繋いでキスをして、その先だって――
けれどそれもこれも昔の話だ。今はっきりと自覚したのは、彼への気持ちは完全になくなっているという事。俺は近付いてくる唇に思い切り顔を背けた。
彼はその反応が意外だったようで、不思議そうにしていた。
「…もしかして、他に好きな人が出来たの?」
「ッ!」
ビクリと大袈裟に肩が揺れる。脳裏に浮かんだのは鷹村の顔だった。
「そっか……付き合ってるの?」
「貴方に関係ないです」
キツく睨み付けると、晃は腕を軽く上げ肩を竦めて見せた。その時に左手にキラリと光る何かが目に付いた。薬指に綺麗に収められたそれは紛れもなく指輪。何故今まで気づかなかったのだろう、いつの間にか彼は結婚していたらしい。
「それ…」
「ああ、結婚しただけだよ。去年ね」
「……なのに俺にこんな事を?」
「ん?まだ何もしてないよね」
あっけからんとして言う彼はまるで悪びれる様子もない。信じられなくて返す言葉もなかった。
「まあどうでも良いよこんな事。叶は男なんだから浮気に入らないでしょ?」
「本気で言ってるんですか」
こんな人間を好きだったなんて人生の汚点だ。
「俺は本気で貴方の事が――」
言い掛けて口を噤む。
最初からそうだった?あの時もこの人は本気なんかじゃなくて、ただの暇潰しで俺にキスをしたと言うのか。そう思うと自分が馬鹿馬鹿しくて、今更こんな事を言ったって恥をかくだけだ。
「俺の事が?…好きだった?」
馬鹿にしたように笑い混じりに言う姿にカッと怒りで顔が熱くなる。
「本気だったんだ。ごめんね?やっぱりセックスしとく?」
再び押し倒そうとする体を思い切り突っぱねて急いで車から出た。
何もない地下の駐車場を出ると、全く見覚えのないホテル街だった。
タクシーを呼ぼうかと思ったが、財布を持って来ていない事に気付き、ポケットからスマホを取り出す。
電源を入れると一件のメッセージが表示されていた。僅か五分前、相手は鷹村だった。鷹村にせがまれて連絡先を交換した所、毎日のようにメッセージが来るようになっていた。
『桐江さん、今何してますか?俺は風呂から上がったとこです』
いつもなら適当に返していただろうが、今はもの凄く救いのように感じた。俺はスマホを握り締め、鷹村のメッセージ画面に行くと恐る恐る電話をかけた。
『もしもし、桐江さん?どうしたんですか?』
一コールの後に出た鷹村の声に先程までの怒りが嘘だったように沈んでいくのが分かる。俺は震える手を押さえ、深呼吸を何度か繰り返した。
『桐江さん…?何かあったんですか?』
心配そうに焦る鷹村の声。ここ最近は鷹村とばかり居たから、今の表情すら容易に想像出来て、思わず頬が緩んだ。
「鷹村…好きだ」
『…え?……はあ!?』
安堵から涙が頬を伝った。あまりに自然に口からこぼれた本音は、ずっと内に秘めていた気持ち。電話口に困惑した鷹村の声が聞こえてくる。俺は小さく笑いながら言葉を続けた。
「…会いたい」
誰よりも、今すぐに。
『〜〜ッ、取り敢えず、今どこに居るんですか!?』
「…わかんない」
見渡してみてもやはりわからなくて、俺は冷たい壁に背中を預けた。夜も遅くなり少し肌寒くなって来たが、心は穏やかでもはや気にならない。
『何か目印になるもの、何でもいいんで目に付くもの写真撮って送って下さい!すぐに向かうんでそこから動かないで下さいね!』
「わ、わかった」
電話を切ると一番に目に付いた店の看板を撮り、すぐに鷹村に送った。『ありがとうございます』とだけ返って来たメッセージ画面を見て、そのまま胸に押し当てた。
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