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scene4-3
小川が消えた昇降口を入り、真っ直ぐの廊下を全力で走る。突き当りは階段。小川は階段を上らずに手前にあった薄暗いままの教室にいた。
背を向けたぽつんとした後姿は、奥の窓に手をかけて、グラウンドを見ていた。竹内は息を切らしたまま教室に入り、窓際までゆっくりと歩いた。
サッカー部現役だった頃よく着ていた紺地に黄色のラインの入ったスポーツブランドのジャージ。ほっそりとした小川の後姿がなんだか懐かしい。
「お前琥太郎睨むなよ、毎度毎度。怯えてるぜ?」
振り向いたわけでもないのに、小川は竹内だとわかっていた。
小川の横に並んで窓枠に手を置く。グラウンドを眺める小川の横顔をそっと見てから、走って荒れていた呼吸を整える。
「睨んでるつもりはねえよ」
「あれで? 最悪だな」
小川はグラウンドで繰り広げられている、女子サッカーの試合から目を逸らさないまま、抑揚なくポツリと言う。
夏休み、インターハイのあの日から一度も口を聞いていなかったのに、わだかまりなど無いかのように会話する不自然さ。気が逸る。小川に言いたい事がたくさんあった。けれど素直に言葉が出て来ない。出てきたのは今一番竹内の心を蝕む棘だった。
「何であんなチャラいのといんだよ」
「いいだろ、お前に関係ない」
「あの二年馴れ馴れし過ぎ、お前にも三年にも」
「俺が良いっつってんだから放っとけよ」
取りつく島もなく、視線すら動かすこともなく、抑揚のない声だった。小川の視界に竹内は入っていない、入れてもくれない事に更に気が逸る。
「……何で後輩なんか連れてんの、やめろって」
「俺が誰連れてようと自由だろ、お前何言ってんの?」
静かに怒りをあらわにして、小川は竹内を睨みつけた。
怒らせたいわけじゃない、喧嘩がしたいわけじゃない、元に戻りたいだけなのに竹内の口は小川を咎める言葉ばかり出てくる。
「あの後輩が好きなのかよ」
「―――」
言った瞬間、目をかっと見開いた小川から光の速さで頬を打たれた。平手ではなく拳で殴られたために、竹内は体勢を崩し近くにあった椅子を倒し派手な音を立てさせた。転ばなかったのは竹内の鍛えられた体幹と、小川にほんの少しの弱さがあったからかもしれない。
「ざけんな、てめえ」
低く押し潰した声を発す小川は本気で怒っている。殴った拳をもう一度握り直すのを見て、竹内は小川の腕を強く掴んだ。小川は拒絶するように強く腕を振り上げたので、竹内は直ぐに手を離した。
「やり返せよ、何で全国ベストエイトのクセにやられてんだよ」
「小川と喧嘩がしたいわけじゃねーよ。何であいつといる? 俺の代わり? 見せつけてんの?」
ずっと引っかかっていた事、言ってはいけない事だとわかっていた。あり得ない、だけど不安は消えない。それがまた小川を傷つける事になるのだとわかっていたが、醜い嫉妬心は消えない。
小川に突き刺さるように鋭く睨まれて、竹内は捕らえられたかのように目が離せずにいた。動けばまた殴られるのではないか、まさに一触即発のピンと張りつめた空気。
口火を切ったのは小川だった。
「人をホモ呼ばわりしてそれで満足かよ、お前なんか俺の一生の汚点だ」
今まで一度も向けられたことのない小川からの憤怒だった。
「俺を汚点にすんな。お前があんな奴連れてるからだろ」
「お前は俺のツレでも何でもねえ赤の他人なんだよ! ふざけた事ぬかすな!!」
「その赤の他人の試合わざわざ観に来んのかよ、おかしいだろ」
「うぬぼれんじゃねーよ! 義理を返しただけだろ! お前なんかどーでもいいんだよッ!!」
「どうでもいいんならここから出る事ねえだろ。なんだよ、逃げるみてえに九州行くとかお前そんなゴミみてーな奴だったのかよ!」
「―――ッ!!」
激高した小川に胸ぐらを掴まれて息が止まる。荒々しい小川に竹内は目を見開いてなすがままになった。乱暴に後ろに押され、寄せられていた机が大きな音を立てて倒れて行く。まるでスローモーションのようで何が何だか分からなくなった。
小川は力任せに竹内を隅のロッカーへ押し潰すと、更に強く胸ぐらを掴み上げた。当たった背中でロッカーの戸が悲鳴を上げるように鳴り響く。竹内は衝撃と苦しさで、眩暈にも似た目の浮遊感を覚えた。
「お前が嫌いなんだよ……一生会いたくねんだよ」
苦しさをかみ殺す、小川の震える声だった。
「嘘だ」
間髪入れず小川が拳でロッカーを殴りつける。鼓膜に響く金属音に、竹内はギュッと目を閉じた。
「大嫌いだ……」
震える小川の吐息を感じる。冷たい指先が頬に触れ、殴られた痕を辿って行く。震える指先。震える睫毛。
震える唇が竹内の唇に触れた。まるで禁忌のものに触れるかのようにほんの一瞬。
小川の想い。竹内の想い。混乱を極めた難解。同性同士、友達同士、そして恋愛感情。
小川を取り戻して自分は一体どうしたいんだろう?
出口のない迷路にいつまでも迷い込んだまま竹内は彷徨い続けている。
逃げて行かないよう小川の腕を掴もうと手を動かした瞬間、小川はサッと竹内から離れ、ありったけの力を込めて睨みつけて来た。
「死ね」
「小川」
「一生苦しんで死ね」
「あんな二年なんかといるな」
「お前よりマシだろ」
「どこがだよ……九州なんか行くな」
「お前のいねえとこに行くんだよ」
どこにも行かないで欲しい。あの時のようにいつでも一緒にいて欲しい。会いたいと思えばすぐ会える距離にいて欲しい。
睨みつける小川の目尻が細かく震え出す。無理した強気が今にも崩れ落ちそうになっている。
「俺は小川じゃないとダメなんだよ……」
「しらん、俺は九州行ったら彼女作って結婚する」
フイと顔を背けられ拒絶する。
「小川、こっち見ろ」
「……黙れ」
「小川」
「うるせえ!」
空気を切り裂く叫び声だった。その声で心が脆く崩れたのは竹内の方だった。
小川は決して聞き入れてはくれない。
塞がる事のなかった胸の中のぽかりとした空洞がさらに広がるのを感じ、身体が垂直にペタリと落ちる。全身の力が抜けてしまったようだった。
「もう戻って来いよ、小川がいねえと俺……」
「うっせえ、うっせえ、うっせえ! もう嫌だ、嫌だ、あんな想いこりごりなんだよッ!」
小川が耳を押さえて喚く。悲痛に歪んだ顔を隠しもせず、まるでもがくように繰り返した。
いつでも強気な小川が崩れて行く。弱さが曝け出される。
腕を掴もうと小川に手を伸ばした瞬間、腹への衝撃を受けて竹内は腹を抱えた。スパイクを履いたままの小川の足が鳩尾に容赦なく入り、咄嗟に防御もできず痛みに腹を押さえて息をつめた。
目を充血させて見下ろす小川が貼り付いたように見ていたが、竹内と目があった瞬間、唇をきゅっと噛み締めると、窓枠に手を掛け、窓を飛び越え外へ飛び出した。あっという間に背中は離れて行く。
グラウンドの真ん中では大きな歓声が聞こえていた。いつの間にか始まっていたサッカーとソフトボールの試合は、多分二人が出るはずのものだったに違いない。
蹴られた腹も痛いが、殴られた頬が今頃になってじんじん痛む。このままだと腫れて相当ひどい顔を晒すことになりそうだった。
空手をあんなにも鍛え全国に行っても、小川の前では最弱だ。何一つ防御する事ができなかった。
竹内はこの見ず知らずの教室に蹲ったまま、しばし呆けていた。遠く離れて行く背中の残像が何度も脳裏に映る。
いつも小川は竹内から逃げて行く、あの日から小川の背中ばかり見ている。けれどもう竹内に小川を追いかける気力はなかった。
馬鹿だ、なんて馬鹿なんだろう。結局小川を捕まえる事も出来ず、まともな話すらできなかった。喧嘩がしたいわけじゃない、殴り合いがしたいわけじゃないのに。
時は刻々と過ぎて行く、このままでいたら小川はいなくなってしまう。
震える唇と触れた吐息は、変わらない小川の想いだ。
友情と、愛情と。
小川なら何でもいい、小川がしたいのなら何でも受け入れる。好きだ。小川と言う人間が離せないほど好きなのだ。男だとか女だとかじゃない。小川以外の人間はいらない。小川じゃないとダメなのだ。だから切らないで欲しい、どこにも行かないで欲しい。
村上と別れた今、離れてしまえばもう二度と会う事もないだろう。数年後、街で偶然会ってもきっと笑って懐かしむことが出来る。
だけど小川とはこの先何があってもずっと一緒にいて欲しいと願う自分がいる。
高校を卒業し歩く道先が違っても、社会人になっても、年老いてもずっと。人生のこの先、生きて行く過程において小川と言う人間を切り離す選択が竹内にはできないのだ。
それが答えなんだと、村上と小川の違い――
身も蓋もない自分の想いをようやく知り、あまりの馬鹿さ加減に両手で自分の顔を覆う。
小川はこんな想いをずっとして来たのか。自分のポジションを突然奪われた村上に嫉妬し、友達から脱することのできない、報われない想いにどれ程苦しんだのだろう。
街中のカフェで竹内と村上の姿をガラス越しに見た、あの日。
桜の花びらの向こうで小川はどれほどの悲しみを受けたのだろう。あの時、分かったつもりでいて何もわかってはいなかった。人を想う気持ち、伝わらない想いがこれ程までにつらいものだとは思いもよらなかった。
自分は思う存分苦しめばいい。小川が抱えてきた苦しみを知ればいい。
今、竹内の身体中を支配するこの感情は、明らかに友情とは違うものだった。
開け放たれた窓から一匹の赤とんぼが迷い込んだ。いつの間にか教室の中は陽が傾き薄暗くなっていた。
グラウンドではサボってしまった球技大会が終了し、表彰式を執り行う声がする。
三年二組は呼ばれることなくどうやらあれからどの競技も負けてしまったようだ。
小川はサッカーの試合に出たのだろうか。小川が出ていたら負ける事なんてないのだから、きっと竹内同様どこかでサボっているのだろう。
強くなった冷たい風が吹き込み、ざわざわと枯葉が落ちて行った。体操着だけの竹内はブルリと身体を震わせると、浮遊するとんぼが風に流されるように低飛行した。
あと数日もすればもっと冷たい風に変わり、街路は黄色い葉の絨毯に敷き詰められ、短かった秋も終わる。
卒業まであと四ヵ月だった。
永遠に続くと思っていた夏休みも、小川の姿が見る事の出来た教室も、そして、竹内の世界の全てだった高校生活もあと四ヵ月で終わるのだ。
好きだと言う想いはなんて複雑なのだろうか。
男だとか女だとか、友情だとか愛情だとか。大人ですら結婚と離婚を繰り返し失敗するのに、恋愛経験など大してない、十八の自分に違いなど分かるはずなんてない。この歳で何を悟れというのだろう。
ざわざわと生徒たちのざわめきが近くなった。
表彰式が終わり、生徒達が解散した事を知り、竹内は大きく息をつくと、ようやく腰を上げて教室を出た。
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