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校舎のどこからか合唱の歌声が聴こえた。混声の綺麗な響きだった。
古き懐かしい仰げば尊しの選曲は、この高校代々引き継がれているものらしく、創立以来ずっと歌われ続けているそうだ。
年が明け三学期が始まると、受験生は共通テストで勝負の幕が上がり、緊張感の絶えない日々となった。一足先に行く先の決まった者はのんびりと残りの学生生活を楽しんでいる。
一月からはほぼ自由登校となり、クラスの約半分は空席となった。大学を何校も受ける生徒はもう来ない。去年のうちに指定校推薦で進学が決定した竹内は、空手部の師範に頼まれ後輩の指導をしに放課後は部活に顔を出す毎日だった。
二月に入ると三年生は自宅待機となり、指定された登校日に午前中だけ行くようになった。
三月に行われる卒業式の練習を数少ない生徒で行う日々。
竹内は三学期から空席となってしまった定位置をぼんやりと見る。
一年間席替えもなく、同じ席で過ごし、杉田は相変わらず竹内の前の席だった。
パティシエになる、と突然宣言した杉田は、四月から都内にある有名な製菓学校に通うと言う。それを聞いた時、竹内は冗談だと思って真に受けなかった。杉田が本気だと知り、こんなボール蹴って走ってただけの脳筋に、あんな繊細なものが作れんのか? と真顔で問うと、杉田は、ビジョンもなく推薦で大学に行くお前よりよっぽど将来性あってマシだともっともらしく返されて、つい思わずヘッドロックをかけてしまった。
そんな残り少ない日々の中でも常に頭の中を占領している存在。
三学期になってからずっと空席の場所。そこを見るのがこの一年間癖になっていたことを竹内は未だ気づいていない。
小川が、いない。
小川が学校に、来ない──
寒い冬の日。雪が微かにチラつく日もあったが、幻のようにいつの間にか止んでいて少しがっかりする。雪が降るとついついテンションが上ってしまうのは、雪国を知らないせいだろうか。
寒さもまだまだ厳しい二月の終わり、登校日に顔を出したのは数名だけで、みな思い思いに話したり、読書をして過ごしている。小川のいない教室で竹内は頬杖をついて窓の外を眺めていた。もしかしたら遅れて登校するかもしれない小川を、ここから見られるかもしれない、そんな期待があったからだ。けれどそれは毎回叶う事はなかった。
杉田に小川の事を聞いても何も教えてはくれない。彼曰く、小川から言うなと口止めされているらしい。杉田自身も小川の事に関してはもう竹内を信用してはくれない。
しびれを切らし、なぜ来ないのか担任の山口に聞いた所、小川は二学期終わりの三者面談で、スポーツトレーナーやインストラクターを育成する専門学校を考えていると言ったらしい。
親の赴任先には希望に沿う学校があるにはあるがどこかピンと来なかったようで、関西の学校も視野に入れているそうだった。
それから山口にどこを受けるのか一言も報告のないまま、未だにどこを受けたのかわからない、電話をしても誰も出ない、本当にあの子はどういうつもりなのか、自分の進路をちゃんと考えてるのかと愚痴を聞かされる羽目になり、終いには竹内から聞いてくれ、もしくは報告しに登校しろと伝えて欲しいと捲し立てられる始末だった。竹内は即座に「ありがとうございました」と頭を下げて職員室から速足で逃げた。山口のヒステリー顏が容易に浮かんだが、どうせもう進学先は決まっているしあと少しで卒業だ。だから担任の機嫌などどうでもよかった。
頭を支配するのはただ一つ、小川が──
関西。ここ、東京から考えたら九州も関西も遠い土地に変わりはない。
小川は本当に全てを捨ててここを去ろうとしているのだ。地元も、友達も、竹内の事も全部。
球技大会のあの日に言っていた事を、小川は着々と実行している。それを思い知るたびに喪失感が竹内を襲う。
小川がいない──小川がいなくなる。もう二度と会えない。その日はあともうすぐ──
グっと竹内は握っていたシャープペンを握りしめる。クラスメイトが施す黒板アートのチョークの音がカツカツと教室内に響く。
嫌なのだと、もう嫌なのだと、小川は薄暗い教室で何度も苦しげに声を絞り出していた。瞳に涙の膜を張らせ、けれど決してそれを流したりはしなかった。どこまでも竹内を拒絶し、頑なに受け入れない。
自分は小川をどれほど傷つけてしまったのだろう。その傷はどれ程深いのだろう。
時間がないのはわかっている。
あんな風にさせてしまった自分を今更呪っても小川はもう竹内に天真爛漫な笑顔を見せてはくれない。嘆き悲しみ、苦しむ小川を作り出してしまったのが自分だと言うのなら、いくらでも責任を取るから。
だからもう一度チャンスが欲しい。
昼の下校前、飲み物を買いに売店に立ち寄ると珍しく村上にばったり出くわした。村上とは校舎が違うので校内で出くわすのは珍しい。
「受験終わったよ。後は結果待ち」
勉強と緊張から解き放たれた村上の表情はとても明るくて、いつもの村上ではないみたいだった。
「お疲れ、すげえ頑張ってたんだからきっと合格してるよ」
「うん、あとは自分を信じるのみ」
今年に入って村上は、長かったストレートの髪を勉強の邪魔だからと言ってショートボブに切っていた。以前より随分と雰囲気も変わり、前のがどこか大人びて見えていたのはなぜだったのだろう。
「受験終了したんなら帰りにあそこのケーキ奢ろうか?」
「もう彼女じゃないのにー?」
二人が話すのを驚き顔で見ていた村上の友達が「え?! え?! えーーー!! どゆこと? どゆこと??」とパニクっているのを見て、二人同時に振り返る。
いつの間にか集まっていた同級生女子が竹内と村上を遠巻きに取り囲んでいた。嘘でしょ嘘でしょ、何で何でと甲高い声が上がり、洪水のように一斉に押し寄せる。
「マジで二人、つき合ってたの?!」
数人の女子に詰め寄られて竹内は村上を見た。
「つき合ってたね」
「うん」
直ぐに頷いた村上に、「えーーーーっ!!」と驚きの声が上がる。「嘘でしょ嘘でしょ、あの噂ホントだったの?!」「過去形だよね、今は違うって事?!」「まさか復活するの? ね?」それぞれが思い思いに投げかけて来るのに、二人で見合って笑ってしまった。
「俺振られたしね」
「違うよ、私が振られたんだよ」
親密そうに笑い合う二人のやり取りに、「え?! どっちなの?!」「待って、待って!」「え、チャンスあり?」と騒めく。
その場を楽しむかのように村上は「じゃあ後でね」と竹内に手を振ると、まるでモーゼの海割りのように道を開ける女子の中を堂々と進んで行く。
「やっぱ強えーよな」
その後ろ姿に、あの射場で見ていた弓を引く立位を重ね合わせる。的を射る鋭い視線。弓を弾く力強さ。
そうだ、村上は、竹内に気持ちを押し付けて来た女子達とは違う、精神の強さがある。
目標の為に、自分を揺るがすものを切ってしまえる潔さが羨ましい。その弓でもって目標を仕留める、その強さが今はどんなに眩しいか。
いつまでも、離れてしまった親友に未練を残す自分は女々しさの極みだ。
空手で結果を出してたって精神はこんなにも──弱い。
その後村上と駅で待ち合わせて、あの時のカフェに向かった。春、あんなに綺麗に咲いていた桜の木はまだ芽吹いてはおらず、枝だけの寂しい姿だった。
「あー気持ち良かった。オープンにつき合ってたら、こんな気持ちいい気分味わえてたのかー。もったいない事したかも」
着席しても村上は昼の事を反芻して高揚したままだった。
「めっちゃテンション上がってんね」
「だって凄い優越感。もうすぐ卒業だからできたけどね」
生クリームで飾られた色とりどりのベリータルトが運ばれて、村上はえへへと顔をほころばせた。どこか幼い。髪型を変え、受験という一つの足枷が取れただけでどうしてこうも女の子は変わるのだろう。
「初めて竹内君とここに来た時もこのタルト食べたんだよね、美味しすぎてびっくりしたの覚えてる」
村上はそう言って嬉しそうにきらびやかな苺を一つ取って食べた。甘い、とテンション高めなまま竹内を見て微笑む。
「受験終了の労いなんだから、もう一個食べなよ」
「じゃあ、竹内君のちょーだい」
竹内は生クリームが脇に添えられたチョコレートのシフォンケーキを頼んでおり、まだ手をつけていなかったので村上に皿ごと差し出した。
「どーぞ、召し上がれ」
やったあと喜ぶ村上に、竹内もつられて頬が緩む。
大学は本命の国立待ちだが、予備校でやった自己採点では合格ラインに乗っているらしく、間違いないと言われているそうだ。
「両親が張り切っちゃって住む所とかどんどん決めてっちゃってんの。これで落ちてたら家の中葬式になりそうで怖いよ」
「抑えはあるんだろ?」
「うん、W大の政経」
「すげぇ、さすが特進だな」
村上はきっと合格している。なぜだかそんな確信があった。竹内を切って勉強に全振りしてきたのだ、きっと目標に到達しているはず。村上の桜は満開に咲くのだろう。
──そうして地元からいなくなるのだ。
小川と同じように思い出だけを竹内に残して離れて行く。生まれ育った地元を離れ、新しい場所で人間関係を作り、新しい未来へと羽ばたいて行くのだ。
竹内だけ過去を断ち切れぬまま、いつまでも思い出に縛られ成長する事無く立ち止まっているのだろう。
「みんな俺から離れて行くんだな、俺だけ一人ぼっちだ」
無意識に呟いた言葉に村上はフォークを置くと、すっと姿勢を正した。
「だって竹内君私と遠距離恋愛してくれないでしょ?」
「村上がいいって言うならするよ」
「嘘ばっかり」
口先だけの竹内に村上は軽く笑って流してくれる。
村上と遠距離恋愛したら小川が悲しむから。万が一耳に入ったら、きっと小川はまた傷つく。小川が竹内を忘れないでいる限り、悲しませたくないから誰ともつき合えない。
「ごめん……、俺が村上と知り合ってからずっと傷ついたままの人がいてさ」
「うん」
「だから俺の事忘れる為にそいつもここ出るんだ」
「うん」
「もうさ助けてやりてぇよ……あいつ、必死になって断ち切ろうとしてんのに俺が断ち切れなくて、俺の方がダメで」
「………」
「俺がいるとあいつ苦しいままなんだ……っ、でも、できない……」
「………」
グッと両手を握りしめる。あふれ出る感情を拳を作ることで抑えつけたが、声の震えは殺せなかった。
村上の前でさらけ出すことは出来ない、自分は最低だ。村上に対しても小川に対しても。
コーヒーカップの水面が何重もの輪を描いて揺れる。ぽつり、一つの雫がとうとう落ちてしまった。
小川を解放してあげなければいけない。それは自分が小川を諦めるという事だ。でもできない。忘れて欲しくない。竹内はサッと右手で両目を覆う。
「竹内君、前もあそこの席座った時、涙流してたよね」
今二人が座る壁面に沿った席から、村上は外景がよく見えるガラス窓の席を指す。
「私、姉妹だしクラスも女子のが多かったから、男子があんな風に涙流すの初めて見たんだよね。声も出さないで表情もそのままなのに、涙だけがボロボロ流れるの……」
「かっこわりいな、俺……」
「ううん、なんか綺麗だなーって思って。ガラスみたいに透明な粒がボロボロ頬伝って落ちて、何にも言わないで黙って泣いてる。そこに嘘とかそういうの一切なくて」
「……うん」
「きっと竹内君の中には私以外にも誰か居るんだろうなってあの涙見て知ったんだ」
「俺、村上の事ほんとに好きだった。今でも好だよ」
「でもその人の方が好きなんでしょ」
「……ゴメン」
「もう別にいいんだけど」
そう言って村上はお詫びにもう一個と強請って、プリンアラモードを注文した。
いつまでも過去に囚われて、思い出にしがみ付いている自分は世界一情けない。
この感情はどうしたら小川に伝わるのだろう。
長い間傷つけ続けて来たからもう会ってもくれない。携帯は二年のあの夏からブロックされている。生きているのかすらわからない。拒絶されても、否定されても──今、竹内の全ては小川をこんなにも想っている。
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