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scene5-3

   三月五日。  降ったりやんだりの小雨がぱらついていて、天気は雪が混じるかもしれないと言う予報だった。  頬に触れる雨は冷たく、弥生月になったと言うのに長い冬の終わりはまだ来ない。制服の中に紺色のニットを着て、ジャケットの上にはまだコートを羽織っている。  校門には大きく描かれた卒業式と言う文字。脇に植えられた桜の木の芽はまだ固く閉ざし、つぼみを見るのはまだまだ先長い。  三年間を過ごした高校の卒業式当日、いつも通りの時間に登校し、下級生に出迎えられて胸に祝いの花をつけた。思った以上に部活に打ち込んだ高校生活だった。  思い出すのは永遠に続くと思っていた小川との日々。短かった夏休み。同じ教室で過ごした二年間。忘れたいと願われ、口もきけずにいても姿を見る事の出来ていた日々。  それでも一生忘れたくないと、竹内は心に願う。  どうしてだろうか、言葉にしていなくても、振られたのだとわかっていても、以前よりも喪失感は少なかった。きっとこれは時が経つにつれ、じわりじわりと毒のように体中を浸食して行くんだろう。  式が終わり、体育館を出ると、外は水分を重く含んだ雪に変わっていた。チラチラと灰色の空を舞う幻想的な風景だった。  卒業式最後を飾るにふさわしい演出に、卒業生達は歓声を上げ、携帯を片手に校庭に走り出し、思い出を閉じ込める為の撮影会が始まった。体育館の向こうから担任の山口が「教室に戻りなさーい!!」と叫んでいるが誰もが聞こうとはしなかった。  竹内もみんなの興奮にあてられて校庭に出たが、すぐに女子達に囲まれて写真を撮らされる羽目になった。 「竹内君、連絡先交換しよ? 卒業しても顔見たいよ」 「ごめん、交換しても返信はできない」 「春休みクラスでTDL計画あるんだけど行く?」 「忙しいから無理かな」 「大学行っても皆で集まる時は来てくれるよね?」 「あー、約束はできない」  女子達が代わる代わる竹内の隣に立って自撮りして行く。目線は合わせないまま竹内は、チラと中庭を見た。  小川が仲良しの女子やサッカー部の連中に囲まれて撮影会をしている。小川とあちこちから呼ばれて肩を引かれ、輪の中心に納まる。笑顔でVサインをする小川から目を離す事ができず、シャッター音と女子達の声が流れて行く。  なぜあんなにも人気者なのに小川は竹内を選んだのだろうか。もう二度と聞ける機会もない疑問。 「先輩、好きです、つき合って下さい!」  目の前には顔を赤く染めた下級生の女子が立っていた。彼女の後ろで友達が応援している。 「俺、好きな人がいるから……ごめんね、つき合えない」  そう答えると、一瞬の沈黙を置いて「えーーーっ!!」と女子達の大合唱が響き渡った。 「嘘、嘘、本当に?!」 「好きな人って誰? この学校?!」 「つき合ってるの?! 誰、誰、教えてぇーー!!」  いつまでも終わらない女子達の質問攻撃に圧されていると、 「おい、竹内、来いよ!」  見るに見かねた杉田が竹内を呼んだ。小川も一緒にいる。 「可哀想だから助けてやる。ほら、最後だから三人で撮ろーぜ」  一切のわだかまりを捨てて、クラスメイトとして撮る最後の一枚を小川も望んでくれたのだろうか。  自分を取り囲む女子達をかき分けて、杉田が腕を引張ってくれる。 「はい、でかいの真ん中ね」  二人の間に誘導され、三人だけで並んだ。 「笑う、みんなに撮られまくってる」  竹内を取り囲んでいた女子達が勝手に撮る中、それを見て小川が楽しそうに笑っていた。携帯を向けるクラスメイトにピースをし、雪が冷たいと笑いながら文句を言い、ポーズをとる。こんな風に楽しそうにしている小川を見るのが久しかった。自分の隣で笑ってくれているのが本当に嬉しかった。  杉田が携帯に向かって笑えと竹内の口角を強引に上げようとして来る。連写されるシャッター音。高校の最後の大切な思い出。 「小川」  オッケーという声が上がり、どこかに消えてしまいそうな小川の右腕を掴んだ。最後に言っておかなければいけない事があった。  パラパラと雪が二人の腕の上に落ちる。  小川と目と目が合って一瞬無音になった。騒がしいはずのざわめきも山口のヒステリー声も雪の降る音も聞こえない。今しかないと思った。小川が身構える隙もないまま、竹内は掴んだ手に力を入れ駆け出した。 「どこ行くんだよッ、竹内!!」  杉田が竹内の前に飛び出したが「悪い」と言って呆然と見つめる杉田の横を通り抜ける。 「おい! 離せ!! 竹内ッ!!」  突然の事に何が何だかわかっていない小川が竹内に腕を掴まれたまま走らされ怒鳴る。  突然の逃走者に、周りにいたクラスメイト達が「脱走だ!!」と叫ぶ好奇の声と担任の悲鳴を上げる声が聴こえたが、今はとにかく小川を連れ去る事しか頭になかった。 「たけうちッ、離せって!!」  白く舞う雪が視界を遮る。息をはぁはぁと弾ませて小川が怒鳴るが、構わず校庭を突き抜けて校門を出た。荷物は教室に置きっぱなしだ。多分この後担任の気持ちの悪い別れの言葉を聞かされて解散のはずだった。 「竹内ッ!!」  グイと腕を振り上げられて小川の腕が竹内の手から外れる。小川は荒い息をついたまま、歩道横のブロック塀に寄りかかった。小川が逃げないのを安心して竹内も両手を膝につき、止まりそうな息を懸命に整える。  雪は相変わらず降り続いていた。積もる事のない雪はアスファルトの上に落ちて溶けて行く。  自校の学生が登下校にしか使わない通学路の歩道脇だった。車も通行人もほとんどいない、学生服を着た二人だけがどこか不自然にポツンと雪の降る中息を弾ませていた。 「何してくれてんだよ……」  小川が切れた息の中で言葉を紡ぐ。どこか呆れ怒っているイントネーションだった。  目もくれず一目散に走ったが目的があったわけじゃなかった。ただただ続いていた道を走ってきただけだった。 「わかんね、けど、お前に、っ……」 「なんだよもぅ、勘弁してくれよ」  整わない息のまま声を絞り出すと、小川は居心地悪そうに両手をポケットに突っ込んだ。 「ちゃんと言っとかねえと、俺から、全部」 「全部、って」 「ホントはあの時みたいに、海行ってお前に言うべきなのかもしれねんだけど」 「──っ」 「お前きっと来てくれねえだろうから」 「……な、に」  海という言葉に、小川は緊張したかのように目を見開いて竹内を凝視する。茶味がかった瞳が竹内だけを懸命に映し出していた。  今度は自分から。あの時の小川の気持ちを知ればいい。  竹内は一つ大きく呼吸した。 「ずっとお前が好きだった。お前から離れられないのは俺の方だ……」  あの日、人工の浜辺で、波がさざめく中で、小川が竹内に告白したように。訳が分からず友達と言う残酷な言葉で誤魔化した。今はあの時小川が受けた絶望感が嫌という程わかる。  そんな状態の小川を縛り続け、離れられない自分は中途半端な態度で散々小川を傷つけて来た。こんなにもたくさん──  もうお終いならば、友達という言葉で断ち切って欲しい。小川が卒業を願うのなら、竹内も小川から卒業しなければいつまでも小川の残像を追い続けてしまう。あの時竹内が小川を傷つけたように、小川も竹内にトドメを与えればいい。  小川の繕った顔がみるみる崩れて行き、何かを言おうとしているのか唇が震えていた。竹内はそんな小川の肩に両手を乗せて頭を下げた。 「俺、小川じゃないとダメなんだ、お前じゃないとダメなんだよ。情けな……俺、お前いないと一生独りだ、小川以外の人間なんてもう好きになれねえよ」 「やめっ、」 「お前ズカズカ人の中入って来るから俺、お前いんのが当たり前になってて、いつまでもお前にとって俺は特別だと思ってた、お前に忘れられるの怖かった……」 「たけうち、」 「小川が俺から卒業するなら、俺もお前から卒業しないともうこの先、生きてけそうにねえよ……だから、だから、」 「た……け、っ……」  俯いた小川からボタボタと雫が足元に落ちて行く。雪と一緒になってコンクリートの上で混ざり合っていく。小川の肩を掴んでいた手を離すと小川はブロック塀にもたれたままずるずると落ちて行った。  肩が、背中が小刻みに震えていた。竹内よりも細い身体を震わせて、小川が泣いていた。 「小川が好きだ……っもうどうしようもないほど好きだ。だから、俺を一人にするなら、これで最後にするから、もう二度と立ち上がれねーように、徹底的に俺を打ちのめせ……ッ」  竹内の頬にも涙の筋がいくつもいくつも通って行く。あふれ出るものを止めるすべもなく、するりするりと落ちていく。 「たけ、うち、竹内、俺、おれ──……」  涙でぐしゃぐしゃになった小川の顔を多分、一生忘れないだろうと思った。  落ちてきた雪が小川の睫毛に触れ、涙と一緒になって落ちて行く。さらさらと小川の顏に落ちてきた雪は、涙と溶け合って流れて行く。髪も制服も白くなっていた。振り払う事も忘れ、小川には雪など見えていなかったんだと思う。  その夜、弥生月を迎えて今年初の積雪となった。  担任から自宅に電話があったらしく、息子が式の後にいなくなった事を聞いて母親は随分と担任に注意されたようだった。置きっぱなしだった鞄やコートや卒業証書は杉田が持ち帰ってくれたと言う。  そんな卒業式が──終わった。

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