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scene 6
威勢のいい作業員の声が青く澄み渡る空に響いた。
三月最後日。新しい門出を祝うかのような晴天と満開の桜の木々だった。
朝から片付けや掃除に忙しい小川の母、るみ子は、引越しをするはずの息子以上に忙しく働いており「明日は絶対腰痛になるわ」と何度もぼやいている。
朝九時から始まった引越しは、手際のいい作業員二人の働きで二時間ほどで搬入も済んだ。支払いを済ませたるみ子に作業員はありがとうございましたとキャップを取ってお辞儀をし、次の現場へと向かった。
渋谷から出ている私鉄に乗る事三十分。築五年の二階建てコーポ。二階の二帖にも満たないキッチンと七帖の部屋。ここが小川の新しい家だ。
真新しい電化製品の設置や配線は引っ越し業者が済ませてくれ、あとは家具を組み立て、梱包された段ボールを一つずつ開封していくだけだ。
「いいなー俺も一人暮らししてーわー。ここなら俺の学校すげえ近いじゃん」
都心にある製菓学校にこの春から通う杉田は自宅からの通学だ。
「一泊千円で時々泊まらしてもいいぜ?」
「うっわ、腹黒!」
戦力として駆り出された杉田はぶーぶー文句を言いつつも、空になった段ボールを次々と潰していく。
「大翔センパイ、鬼ッスよね」
体育会系の杉田に先輩づらして連れられてきた中津は、意外にも手際が良く気が利く為、引っ越し屋のお兄さんにアルバイトしない? と声を掛けられていた。
「大翔、馬鹿な事言ってないでどんどん片付けないと今夜寝る場所ないからね。もう、琥太郎君ばっかりやってるじゃないの」
母親に咎められて小川は「へいへい」とから返事する。るみ子のいう事をよく聞く中津はお気に入りになってしまったようだ。
「お前ホントかーちゃんと顏そっくりな」
からかい混じりの杉田にるみ子が即座に睨む。
「洋介、お前も母親と瓜二つだからね? 一重でおでこが広いのもそのまんま冴子と一緒だし、頭の形なんて後ろから見たら一緒じゃん。アレルギー性鼻炎も全部遺伝してるし」
小さい頃からサッカークラブに通っていた為、るみ子は杉田の母冴子とも長い付き合いだ。練習中母親達は見学しつつおしゃべりしているので、全てが筒抜けで容赦ない。
「さーせん、黙ります、ハイ」
幼い頃から送り迎えや遠征のサポートをしてくれた親に、子供達は頭が上がらない。即座に引き下がる杉田に、中津がるみ子の後ろで大袈裟に吹き出す。
メディカルトレーナーを目指し、都内にあるスポーツ専門学校にこれから通う小川には、都心から程よく離れたこの場所はとても便がよく、1Kだがバスとトイレも別でベランダもあり、一人暮らしの学生にはなかなかいい物件だった。
今まで家族で住んでいたマンションは不動産屋に引き渡され、るみ子は福岡に居住の場を移す。
年明けに仕事の為先に福岡に渡った父だったが、るみ子は小川が卒業するまでマンションに残っていた。五つ離れた兄は既に社会人で会社の寮に入っており、もう一年顔を見ていない。
在学中、担任の山口は両親共々福岡に行ってしまい小川だけを一人残していると勘違いしていたようだが、実際るみ子はマンションの売却や公的な手続きで日中留守がちになっていただけだった。
残されていたヒステリーな留守電メッセージは、小川が意図的に消去していたせいもあり、るみ子は担任から電話が来ていたことも知らず、進学の報告など息子がしているものだと思い込んでいたようだった。
登校しないと卒業させない、という担任の勝手な判断を小川は杉田から聞き、仕方なく学校へ行った。その時には既に関西の専門学校への入学許可が出ていた。
今は離れる寂しさはほとんどなく、自立したい気持ちが強い。今はただ、一人暮らしと言う未知なる生活に期待ばかりだ。
小さい頃からサッカーしかして来なかった息子を心配するるみ子は、一人で朝起きて学校に行けるのか、ちゃんと学校の勉強をするのか、借金など作らないか、心配は尽きないようだった。
卒業後、やっぱりこっちに残りたいと言い出した息子に最初こそ絶句したるみ子だが、数分後にはどこか安心していたのを知っている。どこか投げやりで自分に向き合わず、身の振り方すらどうでもいいようだった息子を心配していたのだ。
今までやって来たサッカーの経験を生かし、将来を決めしっかりと目標を持ったことがうれしかったようだ。
適当に決めた関西の専門学校はまだ入学金を払う前だった為辞退し、急遽専門学校を東京で探し変更した。生徒数獲得に必死な学校は三月末の第四次まで募集しており選考もあっさりしたものだった。
昼が近くなると、腹の減りが半端じゃなくなり、部屋の中はまだまだ荒れたままだったが、るみ子と杉田と中津の四人で駅前のファミレスに行き昼を済ませた。食後のデザートまで食べ、朝早くからずっと動きっぱなしだったせいかついまったりとしてしまい、これからまたあの荒れた部屋に戻るのかと思うとうんざりしてしまった。
たが、この後まだ電車に一時間乗ってマンションに戻り、二日後の引き渡しの準備をしなければならないるみ子に急かされて、男子三人は渋々と店を出て新居に戻った。
乱雑に広げられた荷物。初めての一人暮らし。小川はどこか上の空で片づけは全く進まない。
──待ち人が来ないから。
ベッドを組み立てて、マットレスの下にある収納の引き出しにお気に入りの服をしまっていると、るみ子がそろそろ帰るからね、と腰を上げた。
春の陽は傾き始め、南向きの部屋はうっすらと暗くなり始めていた。
小川は時計を見て、窓の外を何度も眺める。いつまでも落ち着かない。部屋の中はまだ足の踏み場もない──あいつ来ない気か。
気ぃつけてな、と中津と玄関に立ってるみ子を見送り、杉田がサボって転がっている部屋に戻ると、玄関先から出て行ったはずのるみ子の甲高い声が聞こえた。忘れ物か? と玄関へ身を乗り出して見ると、開かれたドアと一緒に聞こえた声は聴き慣れた声だった。
「大翔ー、竹内君来たよ」
「やっとかよ!」
ようやく訪れた竹内に喜びを隠せず、玄関に駆けて行こうとすると杉田にすかさず呼び止められる。
「小川!」
「ん?」
「……よかったなぁ」
杉田はそう言うと、竹内の声のする方をチラリと見やってから意味深にニヤッと笑った。
「きしょ」
そう笑って小川は、衣類の詰まった段ボールを器用によけて玄関に向かう。竹内がなかなか来ない事に気分が落ちかかっていたのが杉田にはバレバレで腹が立つ。
玄関ではるみ子にしつこくよろしくね、と頼まれていて竹内は苦笑いして頭を下げていた。息子に睨まれてるみ子がやっと帰ると、竹内は小川を見てまた更に苦笑した。
「悪い、遅くなった」
「おっそいわ、既読つかねーし来ねーかと思ったじゃん」
「だからすまんて。杉田いんの?」
「いるよ」
スニーカーの紐をほどきながら、竹内は寄って来たのであろうコンビニの袋を置く。
「あ、竹内センパイ、ご苦労ッス」
頭にタオルを巻いた中津がひょっこり顔を出すと、竹内は随分と驚いたようだった。
「え、何で中津がいんの」
「俺が呼んだ~」
部屋の中から杉田が間の伸びた声を上げると、中津は「ッス」と竹内に小さく頭を下げた。
なぜだか知らないが、中津はいつの間にか竹内信者になっており、この四月から空手部に入ると宣言した。
「俺、実はサッカーより空手とか合気道とか、武道がやりたかったんスよ。高校はあと三ヶ月しかできねーからどっか入門できる道場探してんスわ」
「へえー、いいんじゃない? お前タッパあるし身体も出来てるし、むいてるよ」
竹内に肩の筋肉を確かめるように触られると、中津は頭を抱えてうな垂れた。
「あー俺何でサッカー部辞めた後空手部行かなかったんだよ、竹内センパイに指導されたかった……すげー後悔ッスよ」
空手の強いイケメンにいつからか睨まれるようになって、中津は随分とビビっていたが、持ち前の強心臓で挨拶をし続けていた。中津が武道に憧れているのを知っていた小川は、竹内が一変して中津にも接するようになったのがどうにも気に入らない。
「琥太郎、邪魔」
玄関で立ったまま話す竹内と中津の間に割り込む、小川の分かりやすいヤキモチにぷっと中津が吹き出す。竹内もつられて笑う。
「なんだよ」
無遠慮に笑う後輩をど突きつつ、言いたげな竹内を見遣る。
「お前そんな可愛い事すんだなと思って」
「は、」
余裕たっぷりな竹内の口ぶりに、言葉が詰まる。いつもなら言い返せるのに何も言葉が出てこなくて真っ赤になってうろたえる。
おかしい、もうずっと自分はおかしい。竹内のそんな仕草一つでこんなにも動揺するなんて。
「ウソウソ、お邪魔すんぞ」
心を惑わせている小川の頭を撫でる竹内に、中津から「キュン死~」と声が漏れる。
大学のオリエンテーション帰りの為、持ち帰り物が詰まったでかいバッグを玄関先に下ろすと、竹内はまだ何も片付いていない部屋に上がる。
乱雑に置かれた荷物の向こうに杉田が座り込んでいるのを発見して、竹内は提げていたコンビニ袋からエナジードリンクを取ると、杉田にお疲れと言ってポンと渡した。
「竹内が早く来ねえから小川がなんもしねーよ」
朝から拘束されていた杉田はわざとらしく嫌味を言う。
「杉田ありがとな、助かるわ」
「うわ、めっちゃ彼氏ムーブ出してんじゃん」
「ああ、彼氏だしね」
さらりと竹内が答えるのを聞いて、小川は自分の脳内がショートし、前後不覚になる。そしてそのままずるずると背を預けた壁伝いにしゃがみ込む。爆発しそうな想いに心臓がどうにかなってしまいそう。好きすぎてたまらない、そんな自分をどうしたらいいのかわからない。
そんな小川を見て杉田がわざとらしくニヤニヤする。
「おいやめろ、小川が瀕死。部屋片付かねーぞ」
「俺はいつも通りなんだけどね。ほら、大翔来いよ」
竹内に呼ばれてピクリと肩を震わせる。
「大翔?! いつの間に名前呼びかよ、おい、小川生きてるか?」
「うるせえ……」
「ん? 何か聴こえたッスね」
小川の唸り声に中津が耳をすませる。
「お前らコロス」
「あ、生きてるみたいッス」
中津までも弄るので小川は無言のまま後輩の足を踏むと、見かねた杉田がスクリと起き上がり仁王立ちした。
「これもこれもこれも! 全部俺と中津で組み立ててやったんだぜ?! ベッドなんか収納の引き出しが四個もついてんのにそれすらコイツ組み立てねーで腑抜けやがって。見ろよ、この完璧な組み具合、金取れるレベルだぜ」
ベッドやAV用ボードやデスクなどの組み立て家具を指し、杉田がドヤ顏で竹内に訴える。
「凄いじゃん、さすが将来のパティシエ、手先が器用なのは本当なんだな。大翔にやらしてたら絶対にネジ無駄にしてただろうし、永遠に出来上がんねーから感謝してるよ」
竹内にほらお前も褒めろと言わんばかりに視線が飛んで来て、フイと首を横に向けて顔を反らす。
「ふん、俺だってカーテンつけたし家具の配置したし」
「てめえ、竹内が来た途端態度変えやがって」
わざとらしく拳をギリギリと握りながら、竹内の前では乙女のようになってしまった小川を睨む。
「引越しした当の本人が全然やらねえってどーいう事だよ、一言目には竹内、竹内から連絡がねぇっていつまでも探し続けてさぁ、オメーがさっさと来ねえからだぞ、こいつスマホばっか見やがって、そんで外見ちゃ遅ぇーって動かねーしよお、最悪。何で俺がフォローすんだよ、竹内がいねえくらいでダラダラダラダラ」と、愚痴が止まらず、その後は竹内がいるからもういいじゃんとスマホゲームを始め一切の手伝いを止めてしまった。
しばらくは放っておいたが、飽きたのか数分後には中津を連れて渋谷に行くと言って帰ってしまった。
閉められたドアを見てあーあ、と竹内が呆れた声を上げた。
「杉田怒らせてんなよ。朝から手伝わせておいてお前酷すぎ」
「違うって、あいつすぐ俺見てニヤニヤするからさ」
自分達のすれ違いをずっと見てきた友達とは言え、事あるごとにニヤニヤされ、デリカシーがなさすぎだと小川も不満が積もっていたのだ。
「あー……、でもしょうがねーよ。お前顔にも態度にも出すぎてるし」
少し困ったように瞳を細めて小川を見る。そんな眼差しにどこか恥ずかしくなり、しゃがみこんで頭を下げる。
「そんなつもりねーよ、俺」
「自覚ないの? 隠す気ないのかと思ってたわ」
しゃがみ込む小川の前に、竹内も同じくしゃがんで顔を覗き込んで来る。近い距離感に頬が熱くなるのがわかった。
「いやいや、言ってよ、マジ恥ずいじゃん俺」
「今も出てる、俺が好きでたまんねーって顏」
下を向いて顔を隠すのを邪魔するように、竹内は小川の顎に手を掛け上を向かせる。当たり前のように触れられる事が嬉しくて、甘酸っぱい感情に胸がくすぐったくなる。
「二人の時はいいじゃん、出てたって……」
自分は今、盛大に恋している。
「いいけど、あいつらにカワイイとこ見せんなよ。見せていいのは俺だけだろ?」
「うん……」
ちょっと前までは、好きになってはいけない、忘れなくてはと、必死に気持ちを押し込んでいた。
どんなに心を殺しても消えなかった竹内への感情は、抑えなくてもよくなった今、溢れるばかりでもう自分でも制御できない。好きという想いは堪えれば堪えるほど大きくなるのだと、身をもって実感している。これは自分にとって人生を掛けた恋だ。
顔が近づき髪と髪が触れる。竹内が呼吸し身体が動いているのが分かる。
竹内がここにいて自分に触れている。他の誰でもない、自分を──
「俺見て、」
竹内の声に、合わせられず彷徨わせていた瞳を上げると目と目が合った。ずっと欲しかった竹内の視線の先、その瞳の中に自分が映っている。ただそれだけなのに、それが小川にとってどれほど奇跡なのか、竹内にわかるだろうか。
小川の口元を誘導するように竹内の唇が重なる。
キスはもう何度かしている。何ならその身体にだって以前は戯れに触れていた。それでも鼓動は聴こえそうな程激しく脈打つ。
軽く重なっていただけの唇が音を立てて何度も重なり、密着する。
「俺の名前呼んで」
「ゆ、うせい」
重ねたまま竹内が嬉しそうに「うん」と甘やかな声で囁く。
竹内を前にすると手も足も出せない、子供のようになって言いなりになっているしかできない。
告白をし振られたあの高校二年の夏休み、もう二度と竹内とこうして触れ合う事などないのだと、あの時全てを悟ったはずだった。
小川の抱える竹内への想いは、竹内が小川に対して持っている感情とは全く異種のものなのだから、もう近づいてはいけないのだと。傷つくのは自分だ、一生抱え込むことになる、だから忘れてしまわなければと毎日必死だった。
今、こうしていられる、それだけで胸がいっぱいになる。
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