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chapter 3 What’s 美人館?

 美館(メイグアン)もとい、美人館(メイレングアン)へは、街の北へ延びる道をただ進めばいい。どの裏道や脇道を通ろうが、北への道は最終的に、ある一本に合流するのだ。館は、北への道の終わり、突き当りにある。北へ向かって歩けば、よって必ず館に行き着く。  それ以上北になると、不毛な土地だった。館より向こうには、しばらく民家や畑もない。  館の裏手には美人館の働き手のための居住棟があり、その堺にはしっかりと、屋根つきの門扉があった。門にいる門番が、酔っ払いや、しつこく女を追いかけようとする男たちを追い払う。  館が道の行き当たりにあるということはつまり、北への道を進む人間は、道中の店や人家に用事があるのか、はたまた突き当りの館へ向かっているのか。本人がただ歩いているだけでも、周囲の人間には自ずと分かるわけである。  例えば馬車が道を行くなら、それはほぼ館へ向かう人間が乗っていると思っていい。足を止め、手土産を買い、更に道を進む者なら、それもほぼ間違いなく館へ行く人間である。 「大人、大人。あんまり急いで、北道を歩くんじゃないよ」 「そうさね。妻子も店もお座なりで、突き当りに駆けてくつもりかね」  北の道を誰かが急いで歩けば、こんなふうに揶揄う声が飛んでくる光景が見られた。  美人館と言えば、大陸各地で多店舗展開している店だ。大陸のあちこちの街に店があり、都以外の支店は全て、それぞれの店の女将が仕切っている。名前の通り、たくさんの美人が酒や舞、お喋りで、客をもてなす店である――。  ……と言うのは勿論、ただの名目だ。  実際は娼妓が自らの体を売り金を稼ぐ、娼館であった。  なぜ花がそんな場所の女将、芽依と知り合いなのかと言えば、簡単に言えば影音の母、樂樂(ルウルウ)が働いていた縁である。  花の育ての母である樂樂は、妓女ではなく下女として、長い間美人館で働いていた。  賃金は安く、仕事はきつい。  だが二人の子どもを育てながらの仕事となれば、仕事自体そうそう見つからない。飢饉や疫病が流行していた当時は特に、働き口があるだけで幸運と言えた。  女将である芽依の人柄も、口が裂けても良いとは言えない。そのうえ樂樂は、他の仕事も掛け持ちしていた。朝早くから夜遅くまで、彼女は働き詰めだった。自分のことは二の次で働いていた彼女が、病に倒れるのも不思議じゃない。  女将である芽依は、樂樂に暇を出したことが一度もない。それは樂樂の要望だったと聞く。休めばその分お金が貰えない。樂樂は子どもたちのために、少しでも金を残したかったのだ。  どうしても赤子だった花の体調が悪く、仕事を休んだり早退した時、芽依は樂樂を解雇したりはしなかった。妖狐と呼ばれる芽依なら、休んだ従業員の首を切るくらい簡単にしそうだが、していない。  樂樂に同情していたのか、それとも別の者を雇う手間が嫌だったのか、知るのは本人のみだ。  だが樂樂は、他人が言うほど芽依が悪い人間ではないと思っていた。  それは昔樂樂から直接聞いた話だ。彼女はその天海のような大きな心で、何者でも許してしまう性格だった。  病に倒れ、呆気なく逝ってしまった彼女から半年も経った頃、芽依は人づてに、花に仕事の話を持ってきた。そして雇ってもらい、今にまで至る。芽依がどうして花に声をかけたのか、それは今でも謎だった。館に仕事に来た当初、樂樂の残した借金のかたに花を館に呼んだのだという噂になった。耳にした花は、鼻で笑いそれを一蹴した。樂樂は芽依に借金などなかったし、例えあったとしても、自分が借金の代わりになどなるはずもない。それに芽依の性格からして、金は金とのみ等価交換可能である。  美人館に着いた花は正面を突っ切り、そのまま裏手へ向かう。  この時間なので、まだ客もいない。正面の扉から入ることも許されていたが、いつもの習慣で裏に回った。  裏の入り口で下働きの者に会った時、花は軽く汗ばんでいた。あまり遅くなってはと、走ったからだ。  汗で濡れた首に張り付いた髪に顔を顰めつつ、館内へ入る。  中も人がまばらだ。館が開くのは夕方、陽が落ち、子どもが家に帰る頃である。まだこの時間なので、起きている人間も少ない。それも下働きの者たちだけだ。 「――花」  聞こえた声に反応したことを、心の底から後悔する。反応してしまったらもう、聞こえなかったふりで素通り出来ない。  何だって会いたくない奴に限って会うんだろう……。  男はすぐ側まで近寄ってくる。それは花が顔も見たくない相手だった。 「こんな時間に居るなんて、珍しいな」  声をかけてきた男は花を見ると、だらしなくその顔を崩す。元々人相の悪い顔が更に汚くなった。  この男の仕事場は本来、調理場である。廊下で油を食っていていいはずがない。男はことあるごとに花を呼び止めては、締まりのない顔で言い寄っていた。 「……姐姐に呼ばれたんだ」 「走ってきたのか。……良い匂いがする」  男が鼻をひくつかせて匂いを嗅ぐ真似をするので、その気持ち悪さに思わず後退った。  人助けをし、ここまで走ってきた花の服も髪も乱れていた。 「随分急いで来たんだな」  上から下まで、舐め回すような不快な視線が花を襲う。  この男はいつもそうだった。肩だの腰だの、執拗に体に触れようとする。花が男を殴らず耐えている理由は、ただひとつだけだった。それは男が調理場を仕切る長だからである。調理場には知り合いが多い。彼を殴ったりすれば、とばっちりで彼らが酷い目に合う。  突然顔に触れようとした男の手を、花は容赦なくで払った。叩かれた手をわざとらしく庇い、男がにやつく。とにかく笑い顔が不細工な男である。花はあまりの嫌悪で、鳥肌が立つのを感じた。 「大袈裟だなァ。髪を払ってやろうとしただけだろ。それとも期待してんのか」 「お前に世話かけたりしない。自分で出来る」 「つれねぇないつも。……なぁあのこと、考えてくれたか」 「……ッ、」  一度払ったので油断していた。逃れようとしたが遅く、男の無骨な指が花の細い手首を掴む。 「はな、せよ」  男は跡がつくほど手首を握り、やっと触れられた柔らかな花の肌の感触にうっとりと目を細める。  痛みに顔を顰め一歩退がった花の、くびれた腰に男の手が回った。嫌悪感で、今度こそ花の全身に鳥肌が立った。 「いつ嗅いでも良い匂いだ。あぁ……、たまんねェ……」  花の首に鼻を寄せ、男が呻くように呟く。 「生まれつきなんだろ、この花の匂い」 「……っ、離せッ」  握り締めた拳に爪が食い込んでも、花はその拳を振おうとしない。  こんな奴は、殴られ、鼻をへし折られて当然だ。後からの報復が、花だけでことが済むなら、とうにこの拳で殴っている。 「……なぁ、今夜店が閉まったら、俺の部屋に来いよ」 「お前に用なんてない」  腰から下がろうとする腕を必死で掴む。これでは抜け出すことも出来ない。  花が必死でもがけばもがくほど、男はそんな様子に興奮するようだった。突如露骨に押し付けられた男のそこが反応しているのを知り、花は総毛立つ。  もうこうなったら、殴って気絶させるしかない。男には後で、突然どこからか花瓶が飛んできたとでも言おう。信じるには無理があるのは承知だが、誰かに証言を頼んで、押し切ってしまえばいい。  そんなふうに切羽詰まったところへ上手いこと、この男がこの館で唯一恐れる人物が花の目に飛び込んできた。 「姐姐!」  男がびくりと肩を震わせ、花を掴んでいた力が緩む。その機会を逃さず、花は男の囲いから逃れた。  姐姐とは、この美人館の女将の芽依だ。  芽依が声の方を振り向く。そこに花と男を見つけ、怪訝そうに眉根を寄せた。何やら話していたらしい下働きに支持を出すと、花の方へ向かってくる。男は小さく舌打ちした。 「待ってるからな」  早口でそう言い残すと、芽依が怖いのか、男は急ぎ足で去って行く。花は安堵し、ようやく一息ついた。 「まぁた奴にちょっかい出されてたのかい」 「……来てくれて助かったよ」  体にこびりついた嫌な感触を落とすように、花が服の上から自身の体を叩く。それを見ていた芽依は、何かに怒っているようだった。 「まったくもって懲りない奴だね。あんまりしつこいようなら、また鼻の骨でも折ってやりな」  芽依の台詞にも花は苦笑いだった。それが出来たらどんなにいいだろうと思う。こんなふうに、体にまとわりつく気持ち悪さに、いつまでも身を捩らないで済む。  いつもは出来るだけ会わないように、男の存在を避けている。男が入って来られない、娼妓たちの部屋で作業することもしばしばあった。 「小安(シャオアン)たちのために、我慢してるんだろう。あの子たちは赤の他人なんだろう?そこまで気を使ってやる必要はないだろうに……」  肩を竦めた花を見て、芽依には釈然としないものがある様子だった。  自身を犠牲にしてまで他人を守ろうとする花が、芽依には理解出来ないのだ。自己犠牲とは綺麗事。人間は皆、自分にとって利にならないことはしない。それが経験に基づく芽依の考えだった。  芽依の人生では、一番価値のあるものは金だ。財の重みが幸せである。一銭にもならないことはしない。それが彼女の人生の方針だった。  芽依が嘆く。 「拾われたところが悪かったね。貧乏なうえに、お人好しだけが取り柄の母で」  言われた花は、苦笑いでそれを聞き流す。  芽依の口の悪さはもう慣れている花であっても、樂樂のこととなると、それは複雑である。花は素早く話題を変えた。 「てっきりまだ寝てると思ったよ。まだ昼だぞ。なんで起きてんだ?もしかして俺を待ってたのか?」  いつもなら、彼女が起き出すのは夕方近くである。夜の準備をするため、それでも女性陣では一番早い。  芽依は、寝巻きに一枚羽織っただけの格好だった。いつもの濃い化粧もなく、髪すらきちんと結っていない。  年をとって恰幅は増したものの、彼女が若い頃、結構な美人であったことは、その顔から分かった。だが今日は、いつも目が吊り上がるほどきつく結ってある髪も、後ろで無造作に括ってある。そして何より、彼女の眉間の皺が酷い。それに不機嫌な顔である。  芽依は我慢出来なかった欠伸を噛み殺した。 「眠そうだな。後は誰かに聞くから、戻って寝れば」 「好きで起きてると思うかい?それもこれも、うちの馬鹿な娘が逃げ出したせいさ」  娼館で働く者の入れ替わりは激しい。訳ありでこの街に流れ着き、美人館で働く者も多かった。ただ雇う側の方も、それを見越した上で仕事を与えている。 「どこの持ち場だ?」  てっきり裏方の仕事をしている誰かだと思ったが、芽依は首を降った。 「李香(リイシャン)だよ」  その名前に花は驚く。それは予想しなかった人間の名前だ。 「李香……?確か……、悠铃(ヨウリン)の? 「ああ、下働きじゃなくて、妓女なんだよ逃げたのは」  それはかなり意外だった。  確かに芽依は金に目がなく、話す内の九割は口が悪い。  だが娼妓の娘たちのことは、彼女なりに大切にし、その面倒を見ていた。  金の話はしても、芽依は決して、娼妓の女を商品扱いしたりしない。彼女たちに無体を強いる客がいれば、問答無用で館から放り出す。  その昔花は、金を積めば何でも許されると勘違いした客が、面倒を起こす場面に出くわしたことがある。客は見るからに酔っ払った赤ら顔で、大金を床にばら撒きながら、自分の贔屓の女を出せと言って暴れていた。元々、酔っ払うと手癖が悪いのだろう。そういう客には芽依も、娼妓をつけさせない。  ただその客は、知る人ぞ知る富豪だったらしい。床に撒いた金だけでも、花が一生かかっても拝めない額だった。その富豪は、白百利から東のどこかの街の住人で、用があって来たものの、辺境の街で他にすることもなく、仕方なく美人館に来たのだと言っていた。大金を持つ客に、最初こそ店ももてなしていたが、客は段々と目に余るようになったわけだ。  怯える娼妓を背に、「そんなはした金で、私の館で好き勝手出来ると思うのかい」と、啖呵を切った芽依の姿を見た。酔っ払った客は芽依の一言で、すぐさま大男たちに抱えられ、夜の闇に放り出された。  この街以外の他の娼館について詳しく知っているわけではなかったが、そんな女将の居る娼館はきっと少ないはずだ。  娼館で働くしか選択肢のない娘たちの中に、そんな芽依の元を去り、商品扱いする別の館で働いたり、物乞いになりたいと思う者は、花の知る限りいない。 「好いた男でもいたらしい。恩を仇で返すなんて、恥知らずもいいとこだ!」  怒りが八割、残りの二割は、可愛がっていたそれを裏切られた悔しさであろうと、花は踏んだ。何しにろ芽依が本気で激昂すれば、こんなものでは済まない。憤怒した姿が彼女が女狐、狐妖(フウヤオ)と呼ばれる由来である。 「李香に想い人?」  記憶を探ってみるが、何も思い当たらない。 「ついこの前話したけど、そんな素ぶりはなかったぞ。……ほんとに自分から出てったのか?」  花が独りごちる。どうにも記憶の中の李香と、彼女が男と逃げる姿が結びつかない。彼女は確か、まだ十七にも満たないような娘だったはずだ。 「あの娘のせいで、夜通し館中を探したんだよこっちは」  なるほど、それでこの姿なのかと納得がいく。娼館の「夜通し」とは、館が閉まってから後の時間を意味する。おそらく芽依にはその「夜」がなかったに違いない。 「……いついなくなったのか、分かるか」 「一昨日、店を閉めた直後はいたんだ。あの娘と仲の良い娘も、寝所に入る前に話をしてる。ところが昨日、店を開けようとしていないのが分かった。だから抜け出したのは、みんなが寝静まった後だ」  娼妓以外にも、館では大勢が働いている。人ひとりいなくなっても、それくらい気づかれないのも頷ける。 「門番は?」  芽依が首を振る。疲れて垂れた髪を、もう直す気にもなれないらしかった。 「誰も見てない。門に来たのは、酔っ払いと、高級娼妓のしつこい追っかけだけだ」 「門を通らないと、街には出られないだろ。李香が、北の壁をよじ登れるとは思えないし……」  本館と住居棟の間には門扉があるうえ、住居棟は四方を壁が囲っている。北へ逃げるには、高い壁を登るしかない。大の男でさえ、あの高い壁を道具もなしで登るのは難しい。  誰かが、壁の向こう側からこっそり、李香を助けたのだろうか。だがそうなると、それなりの準備が必要だ。この館で働く誰にも気づかれず、はたしてそれが可能だろうか。 「最後の客は誰だ?」 「李香はまだ客を取ってないんだよ。悠铃の側につかせてた」 「客もいない……。想い人が居たってのは、じゃあ一体どこから出たんだよ」  その質問に、芽依が力なく首を振った。顔には疲れが滲み出ている。平常通り仕事をこなし、ろくに寝ないまま李香を探していたのだ。疲れていて当然だった。 「姐姐、戻って、ちょっと休んだ方がいい。李香のことは、俺も情報を集めてみるよ。もしほんとに想い人がいたんなら、そんなにかからないうちに見つかると思う」  そう言って肩に触れる。芽依は頷くと、乱れた髪を押さえながら歩き出した。  その沈んだ後ろ姿を見ていた花だったが、ふと自分がここに来た理由を思い出し、背中に声をかけた。 「姐姐、鉢植えのことは誰に聞けばいいんだ」 「……鉢植え?」  しばらく考えて、ようやく思い出したらしい。李香のことでそれどころじゃなくなり、鉢植えのことなど、すっかり忘れていたようだ。 「子睿(ズゥルイ)に聞いておくれ。彼に全部頼んである」 「分かった。行ってみる。しっかり休んでくれよ姐姐」  ふらふらと歩く後ろ姿を見送り、少し心配になった。あの様子では寝台に転がっても、複雑な感情のせいで、おそらくあまり眠れないだろう。花にも経験がある。いくら体が疲れていても、眠れない夜はある。  言われた通り、子睿のところへ向かう。しかしそこで出会った光景に、花は絶句した。 「この通り、全滅なんだ」 「な、なんで……」  言葉を失ったままの花を見て、子睿は申し訳なさそうに頭を掻く。しかし花は、その衝撃からしばらく立ち直れなかった。  花のここでの仕事は主に、館内と敷地内の木や花、鉢植えの世話をすることだった。彼らが元気な葉をつけられるように、もしくは綺麗な花を咲かせられるように、必要な手入れをする。  先月、季節の変わり目の鉢植えを入れ替えたばかりだった。数日前に確認した時も、何の問題もなかったのに……。 「なんでこんなことに……」  それが今、目の前に並んだ五つの鉢植えは、見事に全て枯れていた。楓も竜胆も、そして金木犀の木も、ものの見事に全て枯れてしまっている。 「水もきちんとあげてた。ほら、見てくれ。花が描いてくれた通りに、ちゃんと世話してたんだよ」  子睿はそう言って、何やら紙を広げて見せた。それは花が描いたものだった。  それぞれの植物に合う、世話の仕方がある。  花は文字を書くのが、あまり得意ではない。なので世話の仕方も絵で描く。館にも花と同じく、字の読み書きが苦手な者が多いため、この方法はなかなかに良いのだ。 「いつこうなったんだ」 「それが不思議なんだ。一昨日の昼までは、全く問題なかったのに、その次の日、気づいたら全部こうなってた」  それは偶然にも、李香が消えた頃と一致する。 「何かこう……変な黒い影みたいなの、見なかった……よな?」 「黒い影?」  それは直感的に聞いてみただけだった。子睿が首を傾げたのを見て、何でもないと首を振る。考えてみれば、今日会ったあれが、こんなところに関係あるはずもない。  掘ってみると、どれも根まで枯れていた。それぞれ掘って見たが、どれも同じだ。水分が十分でないとか、何か病気で枯れたというより、植物の生命力が根こそぎ吸い取られたかのような枯れ方である。 「悪い子睿、少しの間部屋を貸してくれないか。こいつらをもっと詳しく調べたい」 「ああ、もちろん。元からそのつもりで花神(ホアシェン)を呼んでくれるよう、頼んだんだ」  子睿は、ここを使っていいと言い、彼の仕事に戻って行った。

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