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序章 四節

 斎は部屋から飛び出してきた詩緒に襟元を掴まれ、無理やりに千景から引き剥がされるがまま壁へと押し付けられる。詩緒の腕力は決して強くなく、その気になれば簡単に振り払える程度のものだったが、それが許されなかったのは今までに類を見ない詩緒の激怒だった。 「斎テメエ、千景先輩に何してやがんだ殺すぞっ……」  地を這うような低い声で凄まれ、見えているのかも分からない簾のような長い前髪から覗く鋭い眼光に睨まれ、斎は思わず言葉を失う。今までこれ程までに詩緒が本気で激怒する姿を見たことが無かったからだった。 「榊っ落ち着いて!」  これには流石の真香も焦りを覚え、咄嗟に詩緒を宥めようと駆け寄る。真香にとっても千景は尊敬する先輩であり、嘗てあった斎と詩緒とのセフレ関係のような身体の関係が無くとも信じられる存在だった。  それ故に斎の蛮行には許し難いものがあったが、詩緒のように真っ向から斎を責めることが出来なかったのは、その責任の一旦が自分にあることを自覚していたからだった。真香は今程までに斎とのセフレ関係の解消を後悔した瞬間は無い。  詩緒がどれ程千景を慕っているかも知っている真香は詩緒が千景を庇わんと斎を責め立てる気持ちも痛いほど分かり、どちらも大切な親友であるふたりの間に挟まれた真香は心が引き千切られそうな痛みを抱いていた。  詩緒に責められ、仲裁に入る真香もどちらかといえば詩緒と親友であるという関係性が強く、斎はひとり壁に押し付けられたまま孤独を感じる。自分の味方だけがこの世のどこにもいないようなこの感覚は、恐らく実際に体験を経た者でないと理解することは出来ない。  千景は恋人が出来たと言って斎を捨てた。そして詩緒も元彼の綜真と縒りを戻すことになり、それまで三人で上手くいっていたセフレ関係から抜けた。本人は大切な存在が出来たからそれで良いが、置いて行かれる側はただその背中を見つめることしか出来ず、直接捨てた訳ではない詩緒に対しても身勝手だという怒りが斎の中で静かに燻り始める。 「榊だって……」 「はぁ?」  呟いた小さな言葉を詩緒は聞き返す。その本心が音として口から放たれなかったならば、斎はまだ引き返せた。それでも一度言葉にしてしまった思いは引き下がる術を知らず、刃となって孤独を生み出した元凶へと斬りつける。  斎は襟元を掴む詩緒の手首を掴み返し、憎しみの籠もった責める目線を睨み返す。 「榊なんかまだ御嵩さんとセックス出来てないじゃん! 俺のこと言ってないで自分のこと何とかしなよ!!」  詩緒は綜真と一時期付き合っていた六年前の当時であっても一度も綜真とセックスをしていなかった。詩緒が綜真と縒りを戻してからはまだひと月も経ってはいなかったが、未だにセックスに至っていないことを斎は知っていた。再会してからの期間やこれまでの詩緒の気質を考えても、セフレ関係であった時点では何の躊躇いもなかった詩緒が自分たちを捨ててでも選んだ綜真と身体の関係に至っていない事実は斎の格好のネタとなった。 「喧嘩売ってんのかテメェ!!」  当の詩緒も斎の目論見通り綜真との関係に踏み切れないことは常々気に病んでおり、それを持ち出されれば更にコンプレックスが大きく揺さぶられる。斎を睨み上げる詩緒の目には涙が滲んでおり、千景を庇う詩緒を言葉で遣り込めたことが斎の充足感を満たす。  詩緒を遣り込めたことで満足しつつも、詩緒や千景のような存在が守られるべき立場であることを斎は理解していた。芯は強いのに何かに依存していないと自分すら見失ってしまいそうな程不安定なきらいがあって、抱き締めて身体で愛を伝えてその時にだけ見せる甘えた顔がただ愛しくなる。この両腕に掻き抱いて一生守り続けたいと願う時期もあった。反面、自分にはその価値がないから簡単に捨てられるのだと。  愛したい人には愛して貰えず、自分は誰かを見付けるまでの繋ぎなのであると、そう考えると自分がただ哀れで滑稽で、笑いすら込み上がってくる。  ――全てを壊してしまいたい。もう何もかもを。 「詩緒!」  張詰めた二階共有通路の空気を切り裂いたのは、誰よりも遅れて二階へ上がってきた綜真の一声だった。  開かれた斎の部屋の扉と、その扉の前に倒れ込む千景、そして壁に追い詰められる斎と追い詰める詩緒、それを止める真香。この四人の間にどのようなやり取りがあったのかということは、綜真が幾ら勘の鈍い人物であったとしても察することが出来るものだった。  綜真の呼び声で詩緒の両肩はびくりと震え、詩緒が斎を掴んでいた手を離した直後に真香も詩緒を諌めようとしていた手を下ろす。  どんな状況であっても詩緒を優先する綜真は真っ先に詩緒へと歩み寄り、自分よりも上背のある詩緒を抱き寄せる。高身長の詩緒は少し背中を丸める形で綜真の肩口に顔を寄せる。  綜真がどこから会話を聞いていたのかは定かでは無かったが、斎と詩緒ふたりの怒鳴り声は同じ建物の中にいればどこであっても聞き及ぶことが出来る声量で、それは即ち詩緒が綜真と身体の関係に至れていない悩みを綜真に知られたことを意味する。 「……海老原も、その位にしとけお前ら」  少し前に第五分室の一員となり、詩緒の恋人であるということを差し引いてもこの場では最年長となる綜真は少し精神的に危うい斎、詩緒、真香の設立メンバーをフォローする役回りでもあった。  斎も退院後には綜真に仕事のフォローをして貰ったという恩もあり、綜真に物言いたげな視線を向けながらも乱れた着衣を整える。  これまで三人を纏められる立場の者がいなかったということもあるが、当初より元ヤン疑惑の拭えなかった綜真の言葉に逆らう者は誰もいなかった。  第一に詩緒のフォローを考える綜真だったが、部屋の前に倒れ込んだままの千景へと視線を落とすと呆れたように口を開く。 「お前も何やってんだよ」 「っせーな」  これまで神戸支社にいたはずの綜真が今日初めて着任した千景に対して気安い態度を取るのにはふたりが既知であるという理由があった。  しかし千景を尊敬している詩緒であっても、その千景が恋人である綜真と親しげなやり取りをしている姿を目の当たりにするのは堪えきれるものでなく、詩緒は荒々しく綜真の手を振り払い自分の部屋へ駆け込んだ。

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