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一章 二節

 本棟最上階奥の男子便所も今は懐かしい。斎は備え付けの鏡で千景に叩かれ赤く腫れた顔を見る。目撃した他者に何かしらの噂話を流布されるのは好ましくなく、人が寄り付くことの少ないこの場所が最適だった。  千景に叩かれたという事実が斎の中では大きな衝撃として残り、その時の千景がどのような顔をしていたのかも思い出せない。千景は細身に見えてその実腕っぷしはかなり強い。その気になれば昨日も斎を諌めることなど容易に出来ただろうが、それでも斎と向かい合って話をしようとしていた千景の気持ちを斎はまだ理解出来ていなかった。  老朽化しており建物の中で唯一自動ではない蛇口を捻る。凍て付く冷水が思わず斎の手を引かせようとするが、今はこの冷たさが心地よく斎は冷水で冷やすように顔を洗う。 「えーびはらっ」  唯一改修されていない不便さもあったが、建物最上階の奥に位置する男子便所をわざわざ好んで使う者はいない。突然背後から声を掛けられた斎が顔を上げると入口に立つ茅萱と鏡越しに目が合う。 「……茅萱、部長」  顔から水をぽたぽたと垂らしながら、斎は茅萱を振り返る。入社当時のスーツならともかく、ラフなパーカーを着用している斎は誰にも見咎められなければそのままパーカーの裾で顔を拭っていただろう。 「いやぁ聞くつもり無かったんだけどな? ついうっかり聞こえちゃって」  改めて見ても四捨五入して四十歳には見えない茅萱はアイドルのようなキラキラとしたオーラを身に纏っていた。着用しているのは間違いなく仕事着としての誂えたシングルスーツなのだが、そのスーツ姿でさえ冠婚葬祭に現れた学生のようにも見える。  それでいて斎に対してにっこりと微笑む姿はまるで美少女そのもので、寂れた男子便所に全く不釣り合いだった。  こげ茶色の革靴が便所のタイルを打つ音を響かせ、茅萱はまだぽたりと水を顔から滴らせる斎へと歩み寄る。 「お前、佐野とデキてたの?」 「ッ!!」  茅萱は逃げ道を塞ぐように正面から斎に迫り、背後にある洗面台の為斎は逃げ場を失う。  そして茅萱からの問いに改めて昨日からの行動を頭の中で反芻し始める。千景を部屋に連れ込み、メンバーの前で千景との過去の関係を暴露し、今日も会議中の千景を不躾に連れ出した。そんな千景に頬を叩かれようとも無意識に千景を守ろうとする意識が働き斎は言葉に詰まる。  茅萱に聞かれていたという事実そのものより、経緯はどうであれまずは千景との関係を否定しなければと考えた斎は無言で首を左右に振る。 「なあ海老原、お前抱かれてみるほうに興味ねぇ?」  茅萱はその大きな双眸でじっと斎を見上げ、ゾンビに追い詰められ成すすべもなく固まっているかのような斎の耳元でそっと囁く。茅萱の声は直接斎の耳の中へと届き鼓膜を揺らす。 「は、俺……が?」  これまで抱かれる経験は数える程度の斎だったが、茅萱からそういう対象に見られている事実に驚き思わず返す言葉が裏返る。  茅萱は斎に身を寄せ、その指先がパーカーの上から斎の胸元をなぞる。この場所が人のあまり来ない寂れた便所で良かったと斎は改めて実感していた。  茅萱がどれだけ物理的に近付こうとしてもその身長差だけは埋めることが難しく、真香や千景とも異なる画角で見下ろす茅萱の顔はやはり美少女そのもので、口を開き声を発さなければうっかり見間違えてしまいそうだった。 「大丈夫だぜ? 俺上手いし。絶対お前に損はさせないしさ」  声を落として茅萱は囁く。細められた瞳に濃い陰を落とす長い睫毛は茅萱が瞬きする度に大きく揺れる。  ごくりと生唾を飲み込む斎の喉が鳴る。それは斎自身が抱かれるという可能性に対してのことではなく、茅萱に対する性的な好奇心から自然と生まれたものだった。  言葉を失いつつもその反応は顕著に現れ、茅萱はその斎の反応を見て楽しそうに目を細める。これ以上揺さぶる必要はなく、斎の興味が傾きつつあることに目を見て理解した茅萱は斎を解放するように離れ少しだけ距離を取るとスーツの内ポケットから革製の名刺ケースを取り出す。  その中から取り出した一枚の裏面を確認してから決意が揺れる斎の手を取りその名刺を握り込ませる。大量生産されている仕事用の名刺とは異なり、指先で触れるだけでも分かる光沢のある上質なものだった。斎は無意識に手の中の名刺を握り込む。 「抱かれる気になったら今晩このホテル来いよ」  茅萱は名刺を握った斎の拳を両手で優しく握り込む。呆気に取られたままの斎に考える隙も与えず名刺を押し付けた茅萱は、最後の念押しとばかりにその身長差を利用し斎を上目遣いで見上げてから笑みを浮かべる。斎から見ればそれは天使の微笑みのようなものだった。  そして斎にトドメを刺した茅萱は何事も無かったかのように踵を返して出口へ向かって歩き始める。 「え、ちょ、まだ俺は何も……」  一連の出来事が全て夢か幻かに思えた斎だったが、手の中のカードを握りしめたまま立ち去る茅萱の背中に向けて声を掛ける。  茅萱は一度も斎を振り返らずに手を軽く振るだけだった。

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