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一章 三節

 夕方、寮に帰った斎は自室に戻ると抜け殻のように寝室のベッドへと倒れ込む。  寮とはいえその構造は鉄筋コンクリートであり余程はた迷惑な騒音をあげない限り周囲の音が漏れ聞こえてくることはない。しんと静まり返った室内はカーテンの隙間から射し込むオレンジ色の夕陽に照らされ、冬であるというのにどこか温かさすら感じる。  元々詩緒は口が悪く常にツンツンとしており、その態度の悪さも当時の上司だった山城に目を付けられる原因だったが、その棘が丸くなっていった原因には明らかに綜真の存在がある。  三年近く詩緒、真香と共に第五分室のメンバーとして同じ時を過ごしてきていたが、生気を帯び活き活きとした詩緒の様々な面を見ることができるようになったのは綜真が登場してからのことだった。三年間一緒に居ても自分では引き出すことの出来なかった詩緒の表情を綜真はいとも容易く引き出すことが出来た。  セフレ関係になる以前の千景も中途入社をしてきてからどこか他人との間に壁があったが、ある時期を境にその雰囲気が和らいできたのを感じていた。それは千景自身の口から本命の相手と暮らし始めたことを聞かされる直前のことだった。  恋人という存在が詩緒や千景を変えたのだということ自体は斎にも理解ができた。それはただのセフレ関係であった頃よりもずっと――魅力的であり、色気の中に思わず掻き抱きたくなるような儚さも孕んでいた。  〝愛〟というものを斎は理解が出来ない。それは今まで斎が特定の相手と長く交際関係になった経験がなく、愛を誓い合うことも愛を囁かれたことも無かったからだった。  少なくとも真香との間にそういった感情はない。ただの性欲処理の関係性であるからこそ大きなトラブルもなく三年以上続けることが出来ていた。真香にとってそれ程重要な関係では無かったからこそ、真香もセフレ関係の解消を持ち出してきたのだろうと斎は考える。  詩緒は六年を経て綜真を選び、千景も長年片思いだった相手と最終的に結ばれた。詩緒や千景からだけではなく真香からも求められていないという現実が斎の心臓を強く締め付ける。  選ばれない者の気持ちは選ばれた経験のある者には決して分からず、真香だけは自分と同じ痛みを分かってくれているものだと信じて疑わなかった。  詩緒の存在があったからこそ成り立っていたセフレ関係。求められていたのは三人一緒という関係性だけであり、本当は自分自身が求められていた訳ではないという事実はただ斎を長く暗い闇の迷路へと置き去りにした。  枕を抱き締め横向きに眠る斎の頬に涙が伝う。  抱かれることがそんなに魅力的であるのかが斎には想像できない。抱かれた経験がないわけではない。それでも専ら真香と詩緒の三人でいる時は自分が抱く側にまわることが多く、その一番の理由は求められていることを直接実感できるからだった。  それでも一度も抱かれなかったわけではなく、何かの切っ掛けで真香や詩緒を求めたとき拒絶されずに受け入れて貰えたことが斎の心を満たした。  詩緒と綜真の過去に何があったのか斎には分からない。ある程度の内容に関しては綜真と詩緒の口からそれぞれ聞いたことがあるが、それでも全てを明かされている訳ではないことを理解していた。  赤松という余計な存在が詩緒に執着心を抱き、それを起因として詩緒と綜真の過去の遺恨が解消されたのは間違いないが、少なくとも今現在の綜真が詩緒のことを大切に思っているのは先日の一件だけでも十分に分かった。綜真は何よりも詩緒を優先している。照れ屋でツンデレ気味の詩緒ではあったが今は綜真を信じて少しずつでも心を開こうとしているのが分かる。  話に聞くだけでまだ実際に相まみえたこともない千景の恋人も、あのクールと粗雑さを具現化したかのような千景が指輪を肌身離さず常に持ち歩いているところから余程大切にしている相手であるということが分かる。  始めから千景には大切に思う相手がいるということは斎も知っていた。セフレ関係であった時点で何度千景に交際を申し込んだのかも分からない。その度にセフレなら良いけれど付き合うことは出来ないと無碍なく断られ続けていた。それでも時には千景から斎を求めることもあり、恋人という名前に頼らずとも千景とこんな関係でずっと居られるのならばそれでも良いと考えていた時期もあった。  自分が抱くだけを主とするからこそ、分からないのかもしれない。もし抱かれる悦びを今まで以上に知ることが出来たならば、詩緒や千景のように相手を求めることができるようになったならば何か分かるのかもしれない。  斎は徐ろにポケットへと押し込んだものを取り出す。それは茅萱から無理やり渡された名刺であり、ベッドの上で仰向けに寝転んだ斎はそのつやつやとした光沢を指先で楽しみながら名刺に印刷されたホテルの名前と手書きで書き添えられた部屋番号と指定された時間を確認する。  何故茅萱が自分に声を掛けてきたのか斎には分からない。状況から考えると茅萱は千景を誘おうとしていたのかもしれない。当然今の千景が茅萱の誘いに乗るとは思えないが、自分が行くことで少しでも千景に対する償いになるのならばと斎はゆっくりとベッドから身を起こす。

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