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一章 四節

 明確に行くと茅萱に約束をした訳ではない。それでも茅萱のあの口ぶりから考えればきっと茅萱は渡された名刺のホテルで斎のことを待っているだろう。  居なければそれはそれで良いとも思い始めていた。身長百八十センチを越える男を抱きたいと考えるほうがおかしい。同じ百八十センチを越える長身であっても詩緒と自分は違う。見るからに儚げで、簾のような長い前髪とレンズの厚い眼鏡の奥に隠された人形のような整った顔、口は悪く威勢だけは良くその割に腕力は皆無で精神的にも脆い部分があり、思わず手を差し伸べて守ってやりたくなるような――その欠片すら有していない自分を抱きたいと能動的に考える存在がいる訳無い。  斎はエントランスの大理石貼りの玄関で靴を履く。からかわれていただけなら帰ってくれば良いだけの話だ。だけれどもし本当に茅萱が待っていたら、と斎の心の中に何とも表現し辛い不安が過る。 「斎っ」  誰もがまだ自分の部屋で仕事をしているはずのこの時間に突然声を掛けられ斎は息を呑む。呼ばれた声に斎がぎこちなく振り返ると、暖かそうな赤い毛糸のカーディガンを羽織った真香の姿があった。 「どこ、行くんだ?」  寮には備え付けの大きなシステムキッチンがあるが、食事を作りに来るような存在はいない。必然的に料理を得意とする真香が名乗り出て、毎日三食の用意をしてくれている。  通勤の必要が無いからこそできることであり、各人の部屋にも小さなキッチンや冷蔵庫はある為揃って食事をすることは義務付けられているものではなかったが、自然と全員が集まって食事を共にするようになっていた。  いわば寮のお母さんのような立場を兼ねていた真香だったが、今の真香には普段のような明るさは無い。それはきっと先日詩緒と揉めた一件で真香との間にも凝りが出来てしまったかだろうと斎は考えていた。 「えっと……買い物、だよ」  斎の口から咄嗟に嘘が飛び出る。昨日の今日で茅萱部長に抱かれる為出掛けるなどということを今の真香に言えるはずがなかった。何故か言ってはいけないことのような気がしていた。  真香は基本的に明るい気質の持ち主であったが、元々は詩緒以上のメンヘラであり自傷癖がある。リストバンドで隠しているその左手首には見てはならない物があることを斎は知っていた。  斎が真香に真実を伝えられない理由は真香を刺激したくないという思いの外に、先に自分の手を離したのは真香のほうであるという思いもあった。だけれどそんなことは間違っても真香本人に告げることは出来ない。斎は喉まで上がってきた言葉をぐっと飲み込む。 「すぐ帰るからさ」  今だけは何も触れないで欲しい。これまではどんな時でも三人一緒にいたけれど、今はそうじゃない。セフレという関係を一方的に断ち切られて孤独に突き落とされた。その上でどこに出掛けるのかという個人的な事情まで踏み込まれたくはないという拒絶の思いが斎の中で徐々に大きくなってきていた。  斎は立ち上がり、内側から扉を開ける為にも使うセキュリティカードを財布の中から出す。 「あ、ねえ斎っ……!」  真香の透き通る声がエントランスに響く。そもそも夕食の時刻にも早い勤務時間内、トイレも各部屋に備え付けられているので用もなく一階に現れた真香の意図が読めなかった。  可能性としては逐一斎の動向を気にしていたという程度しか今の斎には考えられず、予定外の外出に際して何処へ何のためにと詳細を明かす道理が斎には見付からなかった。  もうセフレでもなく、ただの同僚となった真香にこれ以上踏み込まれたくないという思いが強まる。 「昨日の事……だったら、最近ちょっと榊も御嵩さんとの事で不安定になってただけだし。千景さんもっ、あの人メンタル強いし、だから――」 「だから?」  思わず飛び出た言葉に斎は自分自身でハッとして片手で口を押さえる。真香に対する苛立ちが、捨てた相手に対する干渉が、限界を迎えつつあった斎の中から声として悲鳴を上げ始めていた。  ただ放っておいて欲しかった。これ以上他人となった自分の中に踏み込まれたくないだけだった。たったひとり取り残された自分の気持ちを少しは理解してほしかっただけなのに。  目の前に立ち尽くす真香の表情は凍り付いていた。それはまるで真香が被害者であるかのようにも見えた。傷付けられたのはどちらだったのか、それすらも良く分からなくなってくる。  突き放された自分が突き放してはいけない法律でもあるのか、どんなに傷付いても笑って受け入れなければならないのか、それでも目の前で悲痛な表情を浮かべる真香に対しての罪悪感が皆無という訳ではなかった。  ぎしりと誰かが二階から階段を降りてくる音が響く。それは詩緒か綜真以外の何者でも無いが、今この状況を見咎められこれ以上茅萱の元へ向かう時間が遅れることも斎には看過しきれぬ問題だった。  それが詩緒か綜真のどちらであっても、真香を任せる分には事足りる。とにかく今は一秒でも早くこの場から立ち去りたいと決意を固めた斎は降りてくる気配にも意識を傾けつつセキュリティカードを片手に自動ドアへと向かう。 「よ夜には帰るからっ、あ、夕飯要らないから俺の分用意しなくていいよっ」 「あっ斎……」  真香はにべもなく出ていく斎の背中にただ片手を伸ばすことしか出来なかった。

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