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二章 二節

 先にシャワーを浴びた斎はバスローブを身に纏ったまま、入れ替わりでシャワーを浴びに行った茅萱を待つ時間を持て余してベッドに腰を下ろしてただ待っていた。  ここまで来てしまってはもう引き返すことが不可能だと斎は重々承知していた。これまでにない緊張が斎を襲う。言葉通りに茅萱が部屋で待っていたことや、茅萱自身も斎が来ることに対して半信半疑だった点が迫りくる現実を表していた。  シャワーを浴びる時に脱いだ衣類の上に何気なく置いていたスマートフォンの違和感に斎は気付く。この三年間連絡を取る相手は真香と詩緒に集中しており、それ以外の誰かと連絡を取るようなことは限りなく少なくなってきていた。何かの通知を知らせるライトの点滅に斎はベッドから立ち上がり、スマートフォンを手に取る。  ロックを開けずともその通知内容だけは確認が可能で、液晶画面の一面に表示されている通知は全て真香からの着信とチャットアプリの文面だった。  買い物という理由だけでは言い逃れの出来ない時間が既に経過しており、それでも出掛ける直前に夕食は要らないと伝えたことから帰宅が遅くなることは真香も既に理解をしていること考えられる。  それでも表示される真香からのチャットの文面は斎が今どこにいて戻りは何時になるのかという問いかけだった。これがまだセフレとしての関係性が残っていた時期ならば心配をしてくれる真香に対して可愛らしいという感情を抱くこともあっただろう。しかし今の斎にとってはセフレでもない同じ寮で生活するだけの同僚から帰宅に関してあれこれ詮索されることが苦痛とも言えた。  今になって気にするくらいならば、どうしてあの時自分を突き放したのか。セフレ関係の解消なんて真香が言い出さなければ自分はここまで思い悩んで苦しむことは無かった。真香に対する一方的な憤りを抱いた斎はスマートフォンの電源を切ってから液晶を下側に向けて元の位置に置く。  後悔にも似た感情はやはりあった。それでもやはり今後以前までのように触れることが許されない真香よりは、今目の前で起こり得るチャンスを掴んでみたいという斎の考えを否定できる者は誰もいない。その背中を更に押してしまったのが真香から来た斎を心配する連絡にあたるだろう。  どれだけの時間が経過したのか、斎にとっては長い時間のようにも思えた。シャワーを浴びた茅萱がバスローブの腰紐を巻きながら出て来ると、ふわりと湿度の高い甘い香りがした。  茅萱は男性であるのだから、当然元より化粧をしていた訳ではないが、蒸気で赤く染まる頬が扇情的で斎は生唾を飲む。幾ら可愛らしい顔をしているとはいっても間違いなく茅萱は男性であり、斎が腰を下ろしていたベッドに膝を乗せた茅萱はそのまま斎をベッドへと手慣れた仕草で押し倒す。 「お前と佐野って付き合ってたの?」  長い戯れのキスの後、茅萱は斎の上に乗ったまま見下ろしながら尋ねる。  茅萱がどの時点から自分と千景の会話そ聞いていたのか分からない斎だったが、この期に及んで否定するのはナンセンスだった。それでも今更千景とのことを持ち出されたくないという気持ちもあり気まずさから咄嗟に顔を背ける。 「……ただのセフレですよ。あの人絶対に付き合ってくんなかったし」  一度でも付き合ってくれていたならどんなに良かったから。事あるごとに本気であることを千景に伝えていた斎だったが毎回上手く躱されてきていた。どんなに長い間心に想う相手がいたとしても、実るかも分からない相手より目の前の自分とのことを考えて欲しいと何度斎は千景に対して願ったことだろうか。  それでもいつかは千景が自分を選んでくれると信じて疑わなかった。ある時唐突に本命の相手と付き合うことになったと言われて、千景の選択肢の中に初めから自分の存在など無かったことを斎は知った。 「え、でも佐野指輪してたじゃん」  斎が第五分室の所属になってからはただでさえ薄かった千景との接点は皆無と言って良いほどとなり、今年の夏以降斎が気付いたころには千景はその左手薬指に指輪をするようになっていた。  銀色に輝く指輪を嵌めた千景が喫煙所で煙草を吸っている姿を目撃し、絶望したことは今も鮮明に覚えている。あんなに柔らかく微笑む千景の姿なんて今まで一度も見たことがなかった。 「佐野さんのことはもういいでしょ……」  愛してくれないのならば、始めから声を掛けないで欲しかった。斎の心中にはあの時の惨めな思いが再び湧き上がり、手の甲で目元を覆い隠しつつ涙を堪えるように吐き捨てる。  喫煙所に乗り込んで、千景の指から指輪を奪い取り、窓の外へ放り投げたらどんな顔をするだろう。そんな考えが一度だけ頭に過ぎったこともある。  茅萱は斎の胴を跨ぎ、背けた斎の顔を正面へと向けさせて真っ直ぐに視線を向けてくる。 「好きだったんだな、佐野のこと」  もしかしたら自分は茅萱に呼ばれたホテルへ向かう間に死んだのかもしれない。ここはホテルではなく本当は天国で、自分を見下ろしているのは天使なのだと斎は目の前の光景をぼんやりと眺める。その透き通る金髪がただ綺麗で、核心を突かれた斎の目頭がじわりと熱くなっていくのを感じていた。

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