12 / 40

二章 四節

 買い物に行くと言って出掛けて、連絡も全て無視をした斎が寮に戻った時、一階のエントランスは真っ暗でしんと静まり返っていた。  それも当然だろうと考える斎がエントランスに足を踏み入れると、小さな靴音が冷え切った一階の空気に響く。その直後ダイニングの扉が開き、先程と同じ赤いカーディガンを肩に掛けたパジャマ姿の真香が姿を現す。 「斎っ」 「真香……まだ起きてたんだ」  あれから何時間待ち続けていたのか、連絡ひとつも返さないまま無言で帰宅した斎のことを真香は夕食の後からずっとダイニングで待ち続けていた。  玄関で靴を脱ぎ室内用のスリッパに履き直す斎へと真香は駆け寄り、飛び込まんばかりの勢いで斎に抱き着く。斎は腰の鈍痛から少しだけバランスを崩しかけたが片腕で真香を抱き留め、こんな深夜まで自分を心配して待っていてくれた真香の背中を撫でる。 「……もう帰って来ないかと思ったぁ……」  抱き着いた真香の声は震えていた。安易に想像できることだったが詩緒は恐らく真香に自分を待っている必要などないと言ったのだろう。そして綜真もきっと詩緒の言葉に迎合する。それでもたったひとりで待ち続けた真香の心中は如何ばかりか、後ろめたさから斎の胸がずきりと痛む。  こんなにも自分のことを心配してくれる真香を無視して、つい先程まで情事に溺れていた自分に対して愚かしさすらも覚える。斎は自らの片手で視線を落とす。その手は今さっきまで茅萱を求めて欲に溺れていた汚らしい手。その手は後悔か、真香に対する贖罪の気持ちからか、震えていた。  真香にだけは知られてはいけないと何故だか分からないけれど本能的に感じていた。斎はもう片方のその手で真香の背中をぽんと叩いて抱き寄せる。 「そんな訳無いじゃん。真香と榊と、御嵩さんの居る此処が俺の帰る家なんだから」  それは嘘偽りのない斎の本心だった。帰る場所は此処しかない、それは疑いようのない事実。だからこそ斎は真香に悟られることなくその言葉を口にすることが出来た。  斎の両腕に抱き締められて安心した真香だったが、ふわりと斎から石鹸の香りがしてくることに気付く。最近の斎の様子から考えるならばそれは間違いなく寮の外で誰かを求めたということであり、それ自体は真香が斎を咎められるものではない。宿泊をせずに戻ってきてくれただけでも安心しなければならない、そう考えた真香は石鹸とは別の匂いがすることにハッとして顔を上げる。  真香の驚きの意味に気付いていない斎は僅かに首を傾けつつも普段通りのえみを浮かべる。へらりと笑うその緩い笑顔は今までと何も変わらない斎そのものであり、昨日を発端とした斎の気落ち具合を一番近くで心配していた真香は安堵した反面唐突な変わりようを見て斎に対する疑惑を深める。  当の斎本人はこれで心の安定が図れたということを実感していた。もう真香に対して苛ついた思いを抱くこともなく、今ならば詩緒とも冷静に話をできるような気がしていた。  時刻が既に遅いとはいえ、詩緒が零時すら回っていないこの時間に寝ているとは考えられない。仕事後の深夜こそが本番と考える詩緒が確実に起きている時間であり、もしかしたら綜真と一緒にいる可能性も考えられたが謝るだけならば綜真が同席していても問題はない。寧ろ綜真が一緒にいてくれたほうが手間も省けるというものだった。  斎は真香の不審な視線にはこれっぽっちも気付かず、腕の中から真香を解放すると二階へと続く階段に視線を向ける。 「榊、まだ起きてるかな」 「着いて行こうか……?」  斎の気持ちにどういった変化があったのかは分からなかったが、詩緒の側はそういかない。相手側に受け入れる態勢が整っていなければ先日以上の言い合いになってしまうことは目に見えていた。これまで斎と詩緒が掴み合いの言い争いをするところなど見たことが無かった真香は、ひとりで斎を詩緒の部屋に向かわせることへの一抹の不安を抱いていた。  子供ではないのだし、そこまで真香に迷惑を掛けられないと感じた斎は不安そうに尋ねる真香の頭をぽんと撫でる。 「大丈夫だよ、俺一人で行ける」 「いつ……」  外へ出掛ける時に着ていたコートを片腕に持ち、スリッパの音を響かせながら斎は真香の隣を擦り抜けて階段へと向かう。その間斎は一度も真香を振り返ることは無かった。真香は詩緒の部屋へ向かおうとしている斎の背中へと手を伸ばすが、ただの一度も斎が真香の気持ちを慮ることは無かった。  二階の共有通路へと上がった斎は、自分の部屋の左斜前にある【Ⅺ】というプレートが掲げられた詩緒の部屋の前に立つ。いざ話そうとするとどう切り出して良いか悩むものだったが、今の斎に迷いは一切なかった。何よりもまず詩緒との不和を解消することが斎の優先事項だった。  片手を上げて部屋の扉をノックする。 「――榊、起きてる?」  深夜型の詩緒はいつだって朝方は眠そうにしている。しかし少なくとも今ならまだ起きているはずだと考えていた斎だったが、幾ら待っても部屋の中からは返事がくることは無かった。 「寝てるのか。珍しいな」  寮では滅多なことがない限り各人の部屋に施錠をすることは殆どない。もしかしたらヘッドホンか何かをしていてノックの音が聞こえていない可能性もある。直接部屋を覗いてみようかと斎はドアノブに手を掛けようとする。  案の定、詩緒の部屋に鍵は掛かっていなかった。時折綜真の部屋に泊まることがある詩緒だったが、その場合部屋にはいないことを示すために鍵を掛けることもある。詩緒の部屋に鍵が掛かっていた場合は綜真の部屋を訪ねれば良いだけだったが、部屋が施錠されていなかったことで詩緒が今部屋の中にいることが分かる。  ノブを下げて部屋の中を覗き込んで声を掛けるだけで良かった。しかし斎は部屋のドアノブからそっと手を離し黙って自分の部屋へと戻っていった。

ともだちにシェアしよう!