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三章 一節

 茅萱は間違いなく斎の欠けた心の穴を埋めつつあった。  元々真香や詩緒と違い諸手続きの為に本棟へ赴いてもおかしくない立場だった斎は、業務とは別件で茅萱に呼び出されれば何の疑問も持たずそこまでの仕事を放り投げてでも茅萱の元へ会いに行っていた。  鍵を掛けた最上階の男子便所で声を潜めながら行う逢瀬はこれまでにない高揚感を斎に与え、事後の口付けを茅萱と交わす度に愛しさが増していった。  茅萱の存在は既に斎の救いとなりつつあり、茅萱から求められることだけが斎の存在価値を見出していた。  部長という立場上茅萱も重要な会議の合間でしか斎との時間を作れなかったが、業務の合間に重ねる密会はスリルがあり、秘密の共有という点ではより茅萱との絆を深めていく。  長時間の不在を誤魔化しきれない斎は寮へ戻る前に本棟の喫煙所で一服をして、少なくとも本棟に居たという印象を付けようとする。茅萱も次の会議の時間が差し迫っているらしく、喫煙所前まで同行してそこで別れることとなった。  並んで歩いていればその身長差はまるで大人と子供のように歴然だったが、茅萱はすれ違う女子社員からの声掛けにも丁寧に言葉を返し、つい先程まで男子便所で自分を求めていた雄の顔からは到底想像も出来ない爽やかな笑顔を向ける。  喫煙所の前へと到着し、いよいよ別れの瞬間が近付く。次に会う日なんて決めていない。いつだって茅萱の空いている時間に突然本棟へ呼び出されるので、斎はただ待つことしかできなかった。  人の目があるフロアでなければ別れのキスくらいは出来ただろうか、口寂しくなり無意識にポケットから取り出した煙草を一本口に咥える。それでも喫煙所までの短い間だけでも茅萱と共に居られたことが嬉しくて斎からは自然と笑みが溢れる。  そんな斎の表情をじっと見上げていた茅萱は不意に両腕を伸ばして斎の頭をわしゃわしゃと撫でる。 「わっ、何すんの」  他の社員からはただ戯れているように見えたらしく一瞬の黄色い声と微かな笑い声が斎の耳にも届く。  茅萱は何も言わず小悪魔笑みをニッと浮かべるだけで手を振って去っていく。折角セットした髪型を不用意に乱されはしたが、そんな戯れであっても斎の心は躍り、去っていく茅萱の背中が更に小さくなっていくのを見遣ると喫煙所のノブを回して扉を開く。  その瞬間に斎は息を呑む。  窓の外から入る西日に照らされ眩しい室内の中に煙草を片手にする千景の姿があった。 「ッ!」  茅萱との時間で培った幸せで温かい思いが途端に凍り付くかのような感覚だった。当然喫煙者であり本棟勤務の千景とはこういった機会で遭遇する可能性が多分にあった。一切憂慮をしていなかったのは斎の頭の中が既に茅萱のことで埋め尽くされていたからだった。  突然の千景との遭遇に驚いた斎だったが、すぐに気持ちを切り替えて不審に思われないよう笑みを浮かべて挨拶をする。 「お疲れ様でーす」 「――お疲れ」  千景はちらりと斎に視線を向け、手元の煙草へと視線を戻す。その千景の表情はどこか物憂げに見えた。  特に千景から何も言われないことは逆に怖くもあったが、唇で咥えたままの煙草を上下に揺らしながら斎は自らの着衣を弄る。しかしすぐに現実に引き戻され自分の今日の着衣の中にライターがないことに気付く。 「あっ、と……」 「ライター?」 「あ、ハイ」  斎の言葉からライターを持っていないことを知った千景は灰の朽ち掛ける煙草を唇で挟んだままスーツの胸ポケットへ手を入れる。取り出したのは綺麗に磨かれたシルバーのジッポであり、千景はそのジッポを斎へ差し出す。  仕事以外のことに関してはがさつであるにも関わらず、千景がシルバーのジッポを昔から大切に持っていることを斎は知っていた。 「ほら」  もしこの場所が職場の喫煙所ではなく誰も見ていない所であったならば、吸いかけの煙草から直接火を受け渡すシガーキスをしてくれたこともあったと思い出す。  もう千景にとっては自分がそういった対象にもならないという現実に再び斎の心がずきりと痛む。 「あ……ありがとう、ございマース」  斎はジッポを受け取る為に片手を差し出し、微かに指先が触れ合う。コンビニで売っている大量生産のオイルライターとは異なり、少し固めのホイールを回すと火花が散って温かな色の火が灯る。  何故かオイルライターで火を付けた時よりは味が違うと感じてしまうのは、そのジッポという存在の高級感から来るものだろう。千景が何年前からこのジッポを持っていたのかは定かではないが、鏡のように反射する表面には指紋ひとつ付いていない。 「……お前、そんなに冷え性だったっけ?」 「え?」  キャップを閉じて返却しようとした時、千景はその手元ではなく斎の顔を見ていた。斎は千景から告げられた言葉の意味が分からず困惑する。  すると突然ニットの襟元をぐいと掴まれ、斎は煙草を口から落としそうになりながらも千景に引き寄せられる。 「え、ちょっ……」  千景はその薄いレンズ越しに斎の目を覗き込む。鼓動が高まっていく斎だったが、何故か千景の口元には先程まであった煙草の姿が無かった。返却しようとしたジッポは床に落ち、閉じたキャップが反動で開いて床を滑る。 「――海老原」 「はイぃ?」  思わず声が裏返る。このままキスをしてもおかしくない距離感、間近に千景の顔があって平静を装うことは出来なかった。 「お前、茅萱部長と関わんのやめろ」  途端に嫌な汗が斎の全身から吹き出す。どこで千景に見られていたのか、男子便所にはちゃんと鍵をかけてあったし、中に人がいないことも確認をした。  決して千景を裏切って浮気をしたというようなことでもないのに、何故か斎は居た堪れない気持ちに苛まれる。  千景に返すべき言葉が複数同時に浮かび、何を真っ先に告げるべきであるか対応に迷った斎の唇はただ金魚のようにぱくぱくと何も告げられずに震える。  暫くじっと斎の目を見ていた千景だったがそっと掴んでいたニットを離し斎から顔を背けるのと同時に屈み込み床に落ちたジッポと火が付いたままの煙草を拾う。 「……あの人の良くない噂知らないのか?」  吸いかけだった煙草を灰皿へ落とすと中に溜まった水で消火されジュッと小さな音がする。キャップを閉じる鉄製の音を響かせてから千景は再びそれを胸ポケットへ仕舞い込む。  千景の言葉の意図がどこにあるのかは分からなかったが、斎にとってはただ茅萱を蔑ろにされたような気がしていた。  千景のことを想い続けていた自分がただ滑稽に思えてきた。 「噂……? それが俺にどう関係あるって言うの?」  結局は千景も真香と同じであり、一方的に関係を断ち切って突き放した癖に斎が茅萱という光を見付ければそれを否定してくる。ゴミのように捨てた相手がその後誰を選ぼうと、もう口を挟まれる謂れはなかった。  ただ、怒りに震えていたのだと思う。

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