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三章 二節

 これ以上もう誰からも茅萱との関係を邪魔されたくはなかった。  喫煙所で茅萱との関係を咎められた斎はその直後寮へと戻ると自部屋に飛び込み、その扉がけたたましい音を響かせて閉ざされる。  千景に拒絶され、それでも千景を守りたいという気持ちがあったから茅萱の誘いに乗った。茅萱に求められて煙のように失いつつあった自分の存在意義をようやく見付けられた気がした。しかしそれすらも千景から否定され、あまつさえ茅萱との交流を制限するような言葉にやり場のない怒りが斎の中に渦巻きつつあった。  大型の枕を抱き締めて、口元に押し付けて決して声が外に漏れ聞こえたりしないように考えながら言葉にならない叫びを上げる。  悔しい、それはただ悔しいという感情だった。ようやく見付けることの出来た幸せを、受け入れてもくれなかった相手に否定される筋合いなどどこにもないはずだ。何の権利を以て幸せになろうとするのを邪魔するのか。  自分の中にあった目一杯の雄叫びを吐き出しきった頃、コンと部屋の扉を叩く音が響く。  騒々しい足音と苛立ちによって轟音を響かせる扉の開閉音は自室で作業をしていた真香の耳にも届いていた。今このタイミングで感情を荒立てているのは斎か詩緒のどちらかでしかなく、激情的ではあるがどちらかといえば感情を内に秘めやすい詩緒のことを考えると、何かの用事で本棟へ赴き戻ってきた斎であると考えることが最善だった。  斎の部屋を覗くと日の入りが早くなっているこの時期夕方は既に薄暗くなってくるのにも関わらずその部屋の中は真っ暗で電気ひとつも付けられてはいなかった。  真香は誰よりも今回の斎と詩緒の諍いに際しての責任を感じており、幸い詩緒は綜真に任すことが出来ているが、斎には誰も頼れる相手がいないことを知っていた。  先日の深夜帰宅の時点で真香は斎が誰か他の相手と肉体関係となっていることに気付いていた。薄暗い室内でも配置は自分の部屋と変わらず、真香は勘に頼って寝室へと向かう。するとやはりそこにはベッドに突っ伏し枕を抱き締める斎の姿があった。  斎が涙を流したあの時に、もっと斎の気持ちを分かってやれば良かった。そうしていれば斎が千景との関係を暴露することも避けられたし、詩緒と衝突することも恐らくはなかった。それでも真香は斎に誠心誠意伝えてきたつもりだった。 「俺たちがいんのに、お前はそれじゃダメなのかよ……」  部屋の扉が叩かれ、誰かが入ってきた時点でそれは真香であると分かっていた。真香以外の人物ならば、千景のように玄関から声を掛けるだけで決して部屋の中までは踏み込んでこない。  捨てた癖に今更何をと斎の中で真香に対する悲しみを怒りが渦巻く。枕から手を離してゆっくりとベッドから身を起こす。 「――榊が、さ……御嵩さん選んで、真香との関係も終わった俺にはもう何も無かったんだ」  それは紛れもない斎の本心であった。斎の言葉を聞いた真香はやっぱりと自分があの日伝えた言葉を後悔する。 「そんな事……ないだろ。俺も榊も何も変わんねぇって言ったじゃん……」  何故あの日の言葉を信じてくれなかったのか。ただ身体の関係が無くなるだけで大切な友人であることは変わらないと決めていた真香は身体を起こした斎の背中に縋る。  斎はその背中にじわりと水分を感じる。もう冬であるのに汗のような冷たいものが背中いっぱいに広がっていくような気がした。泣き落としならばあの日の斎もしようとした。だけれど真香の決定を優先してそれ以上の駄々を捏ねなかった。  だからこそ、その後で自分が選んだ道をこれ以上否定しないで欲しい。 「正直、限界だった」  斎から放たれた一言に真香は目を丸くする。 「真香と榊と一緒にいたいから頑張ってきたけど、所詮凡人の俺にはこれが限界だったんだ」  同じ日に同じ会社へ入社して、同期入社ということで少しだけ親近感を抱いていた。それでも上司から一目置かれ始めた真香や詩緒と自分は根本的に何かが違う。側に居ながらもふたりに対していつも劣等感を抱いていた。  自分の価値を見いだせたのはふたりとセックスをすることで求められる時だけだった。  いつか見た詩緒と真香が自分から離れていく夢。そんな日がこんなに早く来るとは思っていなかった。 「真香みたいに、友達がいるからそれでいいなんて簡単に切り替えらんない……」  セックスの出来ない友達なんて要らない。ただの友達なんてそんなものは斎にとって他人も同然だった。  その一言は真香にとっては大きなショックであり、真香はもう斎に自分が必要とされていないことを悟りゆっくりと斎から離れる。  真香を傷付けたことは斎にも理解が出来た。真香がどんな思いで言葉を選んであの日伝えてくれたのかは分かっていたはずなのに。背中に感じていた真香の温もりが無くなっていき、斎はたったひとりの真香を失った自分自身に絶望する。  何故こうも上手くいかないのか。何もかもが上手くいかない。生きるというのがどういうことであったのかも分からなくなるほどに、斎の感情は混迷を極める。その次の瞬間斎は感情を受け止め続けた大きな枕を壁に叩き付けていた。 「なんでっ、何で俺だけ愛されないの!? 俺だけ愛されちゃいけないんだよ!!」  重力に従って落ちる枕を拾い再び壁へと叩き付けた後、自分の行手を阻むようなその壁を拳で叩き付ける。 「なんで、なんでっ……!」  斎の変貌に真香はただ怯えることしか出来なかった。どんな言葉を掛けるのが正しかったのか、それすらも今はもう分からなくなってきている。言葉を失い双眸には涙を溜め、感情を吐き出す斎をそこで見続けることしか出来なくなっていた。  単発的な騒音ならばやり過ごすことも出来たが、続く騒音と怒声に痺れを切らした詩緒は部屋から顔を出し、半分開いている斎の部屋からその声が響いていることを確認する。扉が開いているということは閉め忘れでない限り誰かが訪問しているということで、恐らく真香だろうとアタリを付けた詩緒は一言文句を言おうと斎の部屋を覗き込む。 「斎、真香? なに騒いで……」  玄関から部屋の奥を覗き込んだ詩緒は、寝室で壁を叩き付ける斎と怯えている真香の姿を認め即座に真香へと駆け寄る。  壁には血が滲み、壁を打ち続けていた斎の拳にも血が滲んでいる。一回り以上も体格に差がある斎を真香が止められるはずもなく、カタカタと肩を震わせ涙を流す真香を詩緒は背後から支える。  斎が何かに不満を持っているのは気付いていた。そうでないとあの日に千景との過去の関係を暴露した原因として納得が出来ない。それでも八つ当たりにも程があるというもので、長く協力しあっていた仲間である上、誰よりも友達思いである真香を無碍に傷付けて良いという理由にはならない。 「……真香の気持ちも少しは考えろよ」 「榊には俺の気持ちなんか分かんないじゃん」 「アァっ? 喧嘩売ってんのかテメェ!」  詩緒は立ち上がるとベッドに足をかけ、この期に及んで子どものような我儘を振りかざす斎に掴みかかる。  天地が引っくり返ったとしても、持つ者は持たざる者の気持ちなど分からない。血が滲む拳はじんじんと痛んだが、その痛みだけがまだ自分を正常に保たせてくれているような気もした。  守るべきものがあり失敗や挑戦を恐れるものより、失うものなど何も無い今の自分に怖いものなど何もない。斎は怯まず詩緒を見返す。 「榊、斎やめろっ!」  一触即発の雰囲気を劈く一声にふたりはふと我に戻り、ベッド下でただひとり中立の立場を崩せない真香へ視線を送る。 「やめて、くれ……」  真香だからこそ、斎と詩緒どちらの肩を持つことも出来ない。真香にとってはどちらも大切な友人であり、ふたりが仲違いする姿など見ていられる訳もない。何も出来ない自分が無力で悲しくて、ただぼろぼろと涙を流して肩を震わせていた。ふたりはゆっくりと互いの手を離す。

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