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三章 三節

 もう元の関係になんて戻れない。そんな空気が漂っていた。  千景はプレイングマネージャーという立場上それを崩すことが出来ず、その日の朝も寮へと姿を現し本棟の四條と通話を繋いで朝のミーティングを淡々とこなしていた。  寮制度を導入してから四條が直接姿を現すことは極端に少なくなり、四條の代わりともいえる千景が日々寮と本棟を数度往復する体制が整いつつあった。  朝のミーティングが終われば千景は滅多な理由が無ければすぐに本棟へと戻る。幾ら本棟までの距離が徒歩五分弱であるとしても日に何度も往復するのは負担にもなるだろう。それは千景が入寮を拒否した上でプレイングマネージャーの就任した際の障害のひとつでもあった。  ミーティングが終わり、四人はそれぞれ自分の部屋へ戻ろうとしてカウチから腰を浮かせる。今までのような和やかな談笑はそこに無く、分室内の不和は千景の頭を悩ませていた。 「海老原、ちょっと待て」  重い空気を断ち切ったのは綜真のひとことで、その場にいた千景以外の三人が綜真の呼び掛けに反応を示す。 「……何スか?」 「おいお前っ」  不機嫌そうな斎が振り返り、綜真が言おうとしている何かを理解しているような千景がそれを制止させるべくカウチから腰を浮かせる。 「テメェは黙ってろ」  立場上庶務の綜真よりも明らかに千景の方が上位だったが、どうやら綜真が以前に居た神戸での顔見知りだということを何かの話のついでに聞いた覚えがあった。  だからこそ綜真からの千景に対する「テメェ」呼びであり、親しい間柄であることは理解できるのだが、それを安易に看過できない存在もいる。  それは綜真と六年の時を経て復縁した恋人の詩緒であり、綜真が神戸に居た時期は丁度詩緒が綜真と別れた直後のことでもある。詩緒は綜真と千景が顔見知りであるという事実を知った瞬間からふたりの仲を疑っており、綜真のひとことを聞いた瞬間に詩緒は一目散に二階へと駆け上がっていく。  事情を知っている真香は詩緒を心配して一度階段へと視線を向けるが、この場へ残されることになる斎のことも心配しており、直ちにこの場を離れられずに右往左往して双方に意識を傾ける。 「お前昨日先方に送った見積書、金額いくらって出した?」 「昨日……?」  協力会社に対しての見積書の作成などは営業事務である斎の主な仕事のひとつだった。綜真が投げかけた昨日という言葉に意識を巡らせる斎は昨日が期限だった見積書を総務部に頼んでバイク便で出して貰ったことを思い出す。そしてその直後偶々茅萱からの呼び出しがあり労せず男子便所で合流をしたが、茅萱との時間に上書きされてしまいその直前の行動を今の今まで忘れていた。 「――あっ!」  斎の感嘆の声がエントランスに響く。その声の大きさに階段を上りつつあった詩緒もその足を止める。  斎がようやく自体を把握したことを認識した綜真は、ローテーブルの上に書類を叩き付ける。それは確かに昨日斎が作成した見積書であり、先方企業の名前と納期、見積金額が記載されていた。ただ、その見積金額は第五分室が規定する金額とは異なっていた。 「桁がひとつ足りてねぇんだよ。テメェふざけてんのか?」 「あ、その……」  ひとつ足りない桁数のまま先方に提出し、それが承認されてしまった場合第五分室は通常より十分の一の金額にて請け負わなければならない。金額自体は四條も承認している適正なものであり先方に提示出来る妥当な金額のはずだった。  それに気付いた斎からはサッと血の気が失せて青褪める。犯してはならない失態であり、しでかしたことの重大性は斎も理解していた。  綜真が最後に書類の上へ叩き付けたのは、昨日確かに斎が総務部に発送を依頼したバイク便の封筒だった。 「昨日の内に先方から連絡が来て、俺がすぐに取りに行ったんだよ」  もし金額の誤記載に気付いた場合でも、発送前ならばまだ取り返しがついた。今回においては受け取った先方側がこれまでの金額と異なることに気付き連絡をくれたことから発覚したこのミスは、一度先方の元へ渡ってしまった時点で取り返しのつかないものとなっていた。  まだバイク便で届けられる距離の企業であったからこそ救いとなり、もしこれが長距離トラックや飛行機を使うような内容であった場合発覚にすら時間を要する。訂正した見積書を再度作成して送り直すだけでも時間の浪費は避けられず、それだけでも割りを食らうのは実際に業務に取り掛かる詩緒と真香だった。金額の訂正するしても、そのままの金額で請け負うとしても不利益を被るのは第五分室のメンバーであり、自らのしでかした失態に斎は頭の中が真っ白になっていた。 「すっすいません俺っ」 「なァ海老原、お前その間何してた?」 「なに、って……」  先方から連絡を受けた綜真はすぐさま自らのバイクを使って送付された資料を引き取りに向かった。本来ならば斎自身が行わなければならなかったその行動を、斎ではなく綜真が行ったのは何故か。それは斎と連絡が付かない状態にあったからで、総務部へ発送の依頼をした斎はその直後茅萱と男子便所でセックスをしていた。そして喫煙所で千景に咎められ、舞い戻った寮で真香や詩緒に八つ当たりをしていた。斎は昨日の行動を思い返して小さく震え始める。 「――御嵩、そん位にしとけ。お前だってミスくらいすんだろーが」  これ以上斎を追い詰めても何にもならない。斎の精神状態については千景も理解していた。綜真が斎の責任を問いたい気持ちも分かるが、何とか大事となる前に回収も出来た。小さな誤差に目くじらを立てる必要もないと綜真を諌める千景だったが、千景の吐いたその小さな溜息が斎にとっては千景に失望されたかのような気持ちを抱かせた。

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