16 / 40

三章 四節

 茅萱との情事にかまけて、自らの業務で大きなミスを犯した斎の動揺はとても大きなものだった。しかしそんな落ち込みも茅萱から連絡があれば容易に霧散し、斎は茅萱の「慰めてやる」という言葉に甘えて特に予定も無かったが本棟へ向かうこととなった。  いつまでも仕事のミスで落ち込んでいても仕方が無い。一度だけ深く落ち込んで、同じ間違いをしでかさなければ良いだけのことだと前向きに捉えることが出来るようになったのも茅萱からのアドバイスのお陰で、斎は昼食もそぞろに上着を羽織ってエントランスへ向かう。 「――海老原」  静まり返ったエントランスに響く静かな声。普段ならば朝のミーティングの後は本棟へ戻っているはずの千景がエントランスでノートパソコンを広げ仕事をしていた。  スリッパが奏でる軽やかな足取りは千景の声で呼び止められ、斎はまるで茅萱との逢瀬をまた見咎められているような感覚に陷る。 「どこに行くんだ」 「え、えっと……」  目的を問われれば斎の目線が泳ぐ。茅萱へ会いに行くとは当然口に出せず、かといって咄嗟に上手い言い訳も思い浮かばなかった。もし外出の理由を千景に問われるということが予め分かっていたのならばもっと自然な言い訳も用意出来ただろう。  斎の動揺を見た千景はローテーブルの上に置いていた煙草の箱から一本を取り出し、口に咥えて火を付ける。置かれた灰皿は誰の私物か分からなかったが、吸い殻の本数から察するに朝のミーティング後からずっとこの場所に千景は居たのだと考えられるものだった。  肺を循環させた煙を細く口から吐き出す。真っ黒な大理石貼りのエントランスに揺蕩う紫煙は幻想的にも見えた。 「お前の今日の予定に本棟でのミーティングなんて無いだろ」 「……はい」  上司である千景がメンバーのスケジュールを把握しているのは当然のことだった。一度も本棟へ戻らずエントランスに居続けていた千景は、始めから斎が茅萱と会う為に外出する可能性を想定していた可能性もある。  地を這うような一定間隔を繰り返す音がどこからともなく聞こえだす。それは斎のポケットの中で振動を繰り返すスマートフォンの通知であり、斎はすぐにそれが茅萱からの連絡であると気付く。  冷えたエントランスには上司である千景と斎のふたりきり、そして鳴り続ける茅萱からの着信の通知。千景は灰皿に灰を落としながら斎へ視線を向ける。 「鳴ってんぞ、出ろよ」  千景の前で茅萱からの通話に出られる訳がなく、それこそ千景に対して茅萱との繋がりを明示してしまうことになる。  ポケットの上からスマートフォンを押さえるも振動は未だに続き、徒歩五分で来られるはずの斎が姿を現さないことの催促であると考えられた。一刻も早く千景の追及を躱し向かわなければと斎は感じていた。目の前の千景よりも茅萱に見放されることが何よりも怖かった。 「え、いや、多分大した用じゃないんで……」 「そうだよなあ。勤務時間内だもんな、お前も――茅萱部長も」  隠していたつもりだったのに、千景に見透かされていたことを知り斎の顔が熱くなる。敏い千景を躱して茅萱へ会いに行くのは難しく、事情を茅萱に説明して日を改めなければならないと斎は方向性を切り替え踵を引く。 「おっ俺部屋に戻るんで」 「海老原ぁ」  もう既にスマートフォンの鳴動は無かった。茅萱に愛想を尽かされたかもしれないということが怖かった。一刻も早く弁解をしなければならないと部屋へ戻ろうとした斎は千景に呼び止められてびくりと背中を跳ねさせる。  吸い掛けの煙草を灰皿に押し付けて消火した千景はカウチから立ち上がり、一歩また一歩と斎に歩み寄る。喫煙所で突然顔を覗き込んできたあの時のように、硬直して動けない斎の前まで来ると途端に斎の身体をべたべたと触り始める。 「あ、あの、佐野さん……?」  もしかして――などという都合の良い解釈が一瞬だけ斎の頭に過る。茅萱の元に行かれるのが分かると途端に惜しくなり身体を使ってでも千景が自分を取り戻そうとしているのだとしたら、と斎の心臓は大きく早鐘を打ち始める。 「あった」  そう言った千景が手に持っていたのは、斎がズボンの尻ポケットに入れていたセキュリティカードだった。普段は財布の中に入れたままのセキュリティカードだったが、いつ茅萱に呼び出されるとも分からず、スムーズに取り出せるよう尻ポケットに入れることが常態化していた。  寮の玄関はこのセキュリティカードが無ければ出入りが不可能で、外から戻る時は勿論だが中から外に出る時もこのカードが無ければならない。それ故ただのカードでありながらもその価値はとても希少であり、量産は難しく現在このカードを有しているのは入寮している四名と室長である四條、そして千景の六名のみだった。 「これ、暫く俺が預かるから」  千景は斎の前でカードをちらつかせ、斎の顔色が変わる。千景にカードを奪われるということは斎が自由に寮を出ることもままならなくなるということで、本来ならばパワハラやモラハラとも受け取られる言動ではあったが、こと第五分室に関しては特例としてハラスメント全般を不問にされておりそれが裏目に出た状況となる。 「なんっ、俺だってコンビニ行く時とかあるしっ」 「本田とか榊と一緒に行けゃいいだろ」  カードはひとりに一枚貸与されているものであり、ふたり以上が一枚のカードで出入りするのは禁止されてはいない。  千景は取り上げた斎のセキュリティカードで斎の顎を下から持ち上げる。 「それとも、お前ひとりで外出なきゃいけない理由でもあんのか?」 「ない……です」  そう答えるしか無かった。千景のこの方法は非常に効果的であり、セキュリティカードを奪われた斎は今後出入りの際カードを持つ誰かに頼らざるを得なくなり、それには理由の説明が伴う。  そうまでして斎の外出を封じ込めた千景の「暫く」がいつまで続くものであるのか今の斎には考えも及ばなかった。

ともだちにシェアしよう!