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四章 三節

 冬の早朝は同じ時間帯でも夏に比べてまだ薄暗く、ひんやりと窓から吹き込む冷気によって斎は目を覚ます。  常夜灯を頼りにしても物の輪郭が分かる程度の薄暗さの中、無意識に斎は隣にいるであろう茅萱を求めてベッドの中を探る。しかしつい数時間前までそこにあったはずの茅萱の姿は無く、斎はまだ夢半分の頭を無理やり叩き起こし茅萱の姿を探す。 「ん……ちがやさん……?」  知らぬ前に寝落ちていた斎は全裸のままだったが、後始末だけは丁寧に行われておりそれはまるで昨晩何事も無かったかのようだった。素肌に染みる冷気はただ斎の部屋が寒いというだけの理由では説明がつかず、その寒さの原因を探るよう無意識に窓へと視線を送ると今正に窓枠を乗り越えて来た時と同じ梯子を辿って帰ろうとしている茅萱と目が合う。  茅萱を求めたばかりに見た真冬の夢ではなく、事実茅萱は昨晩深夜危険を顧みず会いに来てくれていた。その事実を再び噛み締めじわりと心が温かくなる斎だったが、日の出より前に部屋を後にしようとしていた茅萱の姿にはただ寂しさを覚える。 「もう……帰っちゃうの?」  服を着る手間も惜しみ、毛布を羽織って斎は窓際へと寄る。思えば茅萱と一晩を共にしたのはこれが初めてのことになるだろう。しかも自分が一番落ち着ける場所であるこの寮の自部屋で茅萱と一晩を過ごせたことはこの上ない嬉しさに満ち溢れていた。  斎がまだ寝ている間に部屋を後にしようとしていたであろう茅萱は、起きてしまった斎の呼び声を聞くと梯子にかけていた足を止めて窓枠に腕を付く。 「しーっ。他の奴に聞こえちまうかもしんねぇだろ」  澄み渡った冬の明け方はただでさえ声が響きやすい。近隣住民に斎の声を聞かれる可能性も考慮し茅萱は声を落として唇の前に人差し指を立てて静寂を促す。  自由に寮からも出られぬ状態となり、どんな魔法を使ったのかは分からないが警報装置を作動させずに茅萱が会いに来てくれることなんて何度も繰り返せることではない。次に茅萱に会えるのがいつになるかも分からない。千景の機嫌次第か、ひょっとしたらもうこんな都合の良い機会に恵まれることなんてないのかもしれない。  これが未来永劫の別れとなるかのような恐怖に怯えた斎は静かに涙を流す。 「茅萱さんと、会えなくなるの嫌だよ……」 「――――」  斎の思考は飛躍しすぎだと指摘するのは簡単だった。しかしたった一日会えなかっただけで狂おしいほどに自分を欲する斎を見て、宛てのない未来に期待を馳せてその場限りの言葉で斎を宥めることが、この時の茅萱には出来なかった。  純粋に自分を慕う無垢な存在が、この先会えなくなるかもしれない恐怖に震えて流す涙は茅萱の中にある感情を揺さぶるのには十分で、茅萱はこの時初めて斎に対して動揺を示した。  年上であるだけではなく、恐らくその恵まれた容姿から経験も豊富であろう茅萱はどんな時でも優しく自分を受け止めてくれていた。そんな茅萱が見せた動揺は斎にとっても初めての姿であり、どこかそれが茅萱の素の表情であるようにも見えた。  人間味のある顔を見たことで斎は尚更茅萱が愛しくなり、それは寝不足で頭がよく働いていない状況下を加味した上でも、これ以上ないほどまでに茅萱への想いが募ったことは間違いが無かった。  その感覚にはどこか覚えがあり、既視感を覚えた斎の思考は一瞬だけフリーズした。それが千景や詩緒、真香を大切に思っていた頃と似た気持ちであることに気付いてしまったからだった。今すぐにでも茅萱の手を引き部屋に引き戻し、この両腕に閉じ込めて二度と離したくない、離れていって欲しくないと叫びたかった。  茅萱のことだけはこの先何があっても失いたくない。きっと茅萱も同じ気持ちであってくれているからこそ、わざわざこうして会いに来てくれた。  千景が口に出していた茅萱に関する悪い噂なんて斎にとってはどうでもいいことだった。自分だけが心から茅萱を信じることが出来る。茅萱が自分を愛してくれているのと同じだけ信頼という形で茅萱に返したい。  あまりに美しくて天使のようなこの人は、その妬みからあらぬ誤解を受けることもあるだろう。受け入れてもらったように、自分も茅萱の全てを受け入れたい。もしそれが誰からも祝福されないことであったとしても。それには斎自身が第五分室のみならず職場自体から離れることも選択肢に入っていた。 「――仕方ねぇ駄犬だな」  ぽつりと呟く茅萱のひとことで斎は現実に引き戻される。それは間違いなく成人を迎え声変わりも済んだ男性の声であるはずなのに、斎にとっては鈴の音を鳴らすような神々しいもののように聞こえた。  茅萱は腕を伸ばし、涙を流し続ける斎を引き寄せ、頬を伝う涙を舌先で拭う。それが何か神聖な儀式のようにも思え、自分の涙が茅萱の一部になるその感覚にすら興奮した。 「なァ、海老原」  茅萱はその天使のような整った顔で悪魔のような提案を斎の耳元で囁く。 「お前が本気なら誰にもバレずにココから出る方法教えてやろうか?」  例えば茅萱が本当に悪魔だったとしても、茅萱にならこの魂を全て捧げてもいいと思っていた。

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