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四章 四節

 いつもと変わらない朝。決められた時刻通りにダイニングへと降りれば真香が用意した朝食をとることが出来る。寮からの外出を禁じられていても時刻にさえ間に合えば食事には一切困ることがなかった。  いつもと変わらないはずの朝だったが、その日ダイニングに居たのはお通夜状態のようにしんと静まり返った真香と詩緒だけだった。普段が騒がしいというわけではなかったが、殆どの場合微かな談笑が聞こえたり朝のニュース番組の音が漏れ聞こえていたりする。  それが今日に限っては皆無で、真香と詩緒は向かい合った状態で座りひとことの会話も交わさぬままただ黙々と食事をしていた。ふたりが喧嘩をしているとは考えられず、もしそうなのだとしたら詩緒は黙って真香と向き合いながら食事をしたりはしないだろう。内に溜め込みやすい詩緒はそういった時ひとりになりたがる癖があった。  そんなことを考えている内に真香が斎に気付き声を掛ける。 「あ、あれっ今日は早いな斎」 「おはよー」 「今日パンだけど、焼こうか?」  幾ら真香が料理を得意としていても、三食全てを真香に頼り切りな訳ではない。時間がない時は当然食事が簡素なものになることもあり、仕事の追い込みで手が回らない場合にはデリバリーを頼むこともあった。  真香はテーブルに手をつき立ち上がろうとするが、この何故か重苦しい空気の中食事をする気にはなれず片手を上げてそれを制止する。 「あ、いいよ俺コーヒーだけで」 「じゃあコーヒー淹れ……」 「いいよ真香は座ってて」  いつまでも真香に頼り切りという訳にもいかない。詩緒ほど家事が壊滅的でない斎は立ち上がろうと腰を浮かせた真香の肩に手を置き着席を促す。  その時斎からふわりと香水が漂ったことに気付いた真香は咄嗟に斎を振り返る。斎が現れても尚も無言を貫いていた詩緒はその真香の行動に視線を向けながらも黙ってカップの中のコーヒーを啜る。  コーヒーメーカーに残っていたコーヒーは丁度一杯分、容量は四杯分の為ここにいる真香と詩緒以外のもうひとり分が既に消費済ということになる。それは考えずとも分かることで、もうひとりと言えばそれは綜真以外には存在しない。  自分のカップにコーヒーを注ぎながらも斎はその綜真が食卓に揃っていないことに気付き疑問を投げ掛ける。 「そういえば御嵩さんは?」  斎の言葉で詩緒の肩がぴくりと揺れる。 「あ、ああ御嵩さん今日は朝から本棟でミーティングあるんだってさ」 「ふぅん」  シンクに背中を預けたまま、斎はカップに口を付けテーブルに坐する真香と詩緒の様子を観察する。朝からの雰囲気から想像するに詩緒は綜真とまだ揉めていそうだった。それが真香にも波及していることから真香も何かしらの理由を知っている可能性がある。  そういう時ですら自分だけは仲間外れ――斎の心の中にちくりと苦いものの込み上げる感覚があった。  これまでの自分ならば仲間外れにされていることに憤慨して部屋へと戻り再び閉じ籠もっていたことだろう。しかし今の心持ちが大きく違うのは今朝方まで一緒にいた茅萱の存在だった。  愛されていることを実感して、満たされたこの状態では真香たちから仲間外れにされようが大した問題にはならない。会いたいと願って会いに来てくれる存在がいることはこれほどまでに幸せで、素直に思いの丈を伝えるだけで解決することなのに素直ではない詩緒にはそれが難しだろうことも斎は理解していた。 「榊、まだ御嵩さんと喧嘩してんの?」  斎の何気ないひとことによってダイニングの空気が凍り付く。 「いっ斎っ」  途端に慌て始める真香は椅子から腰を浮かせて、斎に何かを暗に知らせようとするが、それとほぼ同じタイミングで詩緒は飲みかけのカップをテーブルに叩き付ける。 「――うるせぇよ。テメェには関係無ぇだろ」  ただでさえ低い詩緒の声が寝起きであろうが関係無く、地を這うほどに低く聞こえた。必死に感情を押し殺しているかのような押さえ付けた声だった。  そうやってすぐに詩緒は自分の周りに壁を作る。その壁は真香でさえも安易に乗り越えられないものであり、真香の慌てぶりを見ながら斎は恋愛において最も必要なものが何であるか詩緒へアドバイスをしようとする。 「おー怖っ、可愛げないと御嵩さんにも愛想尽かされちゃうよ。榊はもっとさ」 「斎!!」  斎の言葉を遮ったのは詩緒ではなく真香の怒声だった。てっきり詩緒が言い返してくるものだと思っていた斎はその予想外の真香の行動にぽかんと口を開けて真香を見る。 「なに……どうしたの真香」  詩緒と綜真が喧嘩をしているのはいつものことで、少しは素直に感情を表現したほうが良いと教えるだけのつもりだった。詩緒に短所があるとするならばその内向的で自分を表現することの難しい性格であり、そこさえ克服出来れば必ず綜真とも上手くいくはずだと教えたかった。  両手をついて椅子から立ち上がり、詩緒はダイニングを飛び出す。 「榊っ!」  詩緒を追おうと真香も椅子から立ち上がるが、激しい足音の元詩緒が部屋に入っていった音を聞くと真香はテーブルに手をついたままゆっくりと斎へ視線を送る。 「――斎? 今日何か機嫌いいよな。何か良い事でもあったのか?」 「そお? 俺は普段通りだと思うけど?」  いつもと変わらない普段通りの朝だと思っていた。この瞬間までは。

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