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五章 一節

 寮から出られないことを除けば、普段と何も変わらない平穏な昼下がりだった。千景は斎が本棟へ赴く必要がないようにスケジュールを変更しており、殆どの作業が自部屋からオンラインで行えるようになっていた。どうしても口頭で確認しなければならない件が発生すればオンライン会議の機能を使い、そこまでの必要がないものは全て文面のみでやり取りを済ませることが出来ていた。  本棟への往復時間がない分作業は捗り、昼過ぎに一通りの作業を終えた斎は椅子に腰掛けたまま伸びをする。伸び過ぎたついでに隣の寝室が目に入り、今朝方まで茅萱が自分の為にこの部屋へ来てくれていたことが今となっては夢のように思えてきた。  しかしそれは決して夢では無く自分の身から仄かに漂う茅萱の香水が、その出来事が現実のものであったと斎に教えてくれた。茅萱の香りに包まれることで今も茅萱が側にいるような感覚を得られ、それは決して斎を孤独には陥らせなかった。  去り際の茅萱が斎に授けた寮を抜け出す方法は目から鱗のようなものだったが、確かにその手段ならばセキュリティカードを取り上げられた斎であっても難なく寮から外出することが出来る。問題はそれをいつ実行するかであり、実行に際し慎重に事を運ばなければならなかった。  もし作戦が失敗しようものならば、芋づる式に茅萱の存在が露呈し会えなくなるどころでは無くなるだろう。それでも構わないと斎は考え始めていた。もし茅萱と永劫引き離されるようなことになるのならば、その時は自分も茅萱に着いていくだけだった。茅萱さえ居れば他にもう何も要らなかった。  そんな思案を巡らせていた斎の耳にこれまでの静寂とは異なる騒がしさが飛び込んできた。  平日の寮内が騒がしいのは非常に珍しく、訝しげに玄関の扉を開けて顔を出してみるとひとつ空き部屋を挟んだ左隣である綜真の部屋の扉が僅かに開いていた。どうやら騒々しさは綜真の部屋から聞こえているようで、はっきりとした言葉は聞き取れなかったが詩緒と喧嘩をするのならば扉は閉めてからにしろと斎は内心毒づいた。  喧騒や物音とは違う何かが聞こえ斎は視線を足元へと落とす。そこに居たのはまだ小さな茶トラの猫だった。猫はするりと斎の足に身体を擦り付け、斎を見上げるとミャアと小さな声で鳴く。  その猫は名前をソルトといい、嘗て斎が綜真に譲渡し、綜真が寮の部屋で飼っている猫だった。 「お、ソルト。久しぶりだなぁ」  斎は屈み込み久々に見るソルトを抱き上げる。寮内はペット禁止では無かったが、小動物が苦手な真香に配慮をして綜真はソルトを部屋から出さないようにしていた。頻繁に詩緒が綜真の部屋を尋ねる理由もソルトに会うという理由が大半を占めており、閉じ切っていなかった綜真の部屋から抜け出てきたのだろうと斎は状況を把握する。 「ねえ、御嵩さんの部屋騒がしいけど何があったの?」  斎はソルトに尋ねるが、ソルトはミャアと鳴くのみ。ソルトと命名したのは綜真であり、その理由は他でもなく詩緒に由来しているものだと気付いた瞬間斎は綜真の詩緒に対する深い愛情を理解した。  猫に尋ねても答えてくれる訳がなく、そうしている内にソルトはするりと斎の手を抜け出して一階へと続く階段の方面へと向かってしまう。 「あ、まずいってそっち行っちゃ……」  綜真の部屋が共有通路の一番奥に配置されているのも真香に配慮してのことで、もし寮内のどこかで真香と遭遇しようものならば真香の雄叫びは避けられない。  あまり気は進まなかったがソルトを綜真の部屋に戻さなければと考えた斎はソルトを追って階段を降りる。しかしその一階には誰の気配も無く、エントランスで仕事をしているかもしれないと思った千景の姿すら無かった。  それでも千景が寮内にいることは確かなようで、エントランスのミーティングスペースには千景の上着と鞄が置かれていた。この場所に誰も居ないということは皆声が聞こえた綜真の部屋にいるのだろうと考えた斎だったが、皆が綜真の部屋にいる中ひとりでソルトを戻しに行くのも何だか気が億劫だった。  ソルトが寮内を探検するのはこれが初めてで、余程物珍しいのかカウチの革カバーに爪を立てるソルトを斎は保護という名目で捕まえる。  やんちゃなところはどちらの飼い主に似たのだろうと考える斎は次の瞬間に息を呑む。ローテーブルの上に放置された千景の上着の下にセキュリティカードが置かれているのに気付いたからだった。千景が上着とセキュリティカードを無造作に置いて綜真の部屋に向かった状況については思い浮かばなかったが、これは斎にとっての好機だった。  個人に貸与されているセキュリティカードはそれぞれの社員番号で管理されており、いつ出入りしたかも実のところ管理されていた。後ろ暗いところがなければそれらは全く留意するものでなかったが、斎が何らかの手段で千景からセキュリティカードを取り戻したとしても何時に寮を出て茅萱へ会いに行ったという情報はその気になれば確認が出来るものだった。まさか千景がそこまでのことをしているとは考えられなかったが――ではもし、斎本人以外のカードで出入りをしたならば?  斎の脳裏に今朝方茅萱から伝えられた言葉が蘇る。自分のカードが使えないのならば誰か別の者のカードを使えばいい。例えば詩緒などは入寮してから一度も外に出ていないのでセキュリティカードの場所さえ分かれば拝借が可能だった。  しかし今目の前に出入りで使用しても全く疑われないセキュリティカードが無防備なまま置かれている状況を見逃すことは出来なかった。そもそも斎のカードを取り上げたのは千景であり、その千景のカードを斎が拝借したとしてもふたりのカードが入れ替わっただけで問題には至らないだろう。  斎は一度階段へ視線を向け、誰も一階へ降りて来そうにない事を確認する。

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