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五章 二節

 日が沈みかけた頃、斎は連絡を受けた茅萱と繁華街で合流した。  本棟ではいつ四條や千景に見つかるか分からず、茅萱の提案で合流場所が繁華街となった。バイクを使うとエンジン音でバレる可能性があったので、徒歩で現れた斎は茅萱の姿を見付けて即座に駆け寄るが、ようやく陽の下で茅萱と会えたことに嬉しそうに息を弾ませる。 「茅萱さんっ!」 「おっせーよ海老原」  茅萱とてそこまで暇ではないだろうが、連絡に応じ仕事を片付けると斎の到着を待っていた。斎は茅萱の前に辿り着くなり両手を顔の前で合わせて誠心誠意の詫びを伝える。  数時間前までは確かに一緒にいたはずなのに、少し時間が空いただけでも新鮮で茅萱とこうして会えることがただ嬉しかった。 「ごめんって。出掛けにトラブってさあ」  他者のセキュリティカードを使って寮を抜け出すというのは茅萱が斎に授けた案だった。出るだけならば簡単だったが、残していったソルトが我が物顔で寮内を闊歩していれば真香が卒倒しかねない。どうやってソルトを安全に隔離状態におくかで頭を悩ませてしまった。 「俺と会うこと周りに反対されてんじゃねぇの?」  茅萱の指摘にギクリと表情が引き攣る。誰からも歓迎されていないことは明らかだった。寮の唯一での鍵であるセキュリティカードを取り上げるということは会いに行かせないというその最たるもので、このまま第五分室の所属である限り茅萱との本当の意味での幸せを望むことはできないだろう。 「……そんなことないよ。だって俺が茅萱さんに会いたいんだから」  へらっと笑う斎にはこれ以上茅萱に要らぬ心配をかけさせたくないという思いがあった。 「……ほんっと駄犬」 「え? 何か言った?」  ぼそっと呟いた茅萱のその言葉は斎の耳には届かなかった。 「何でもねーよバカヤロウ」  茅萱は斎の額を軽く小突いてから我が物顔で歩き始める。社内のみならずこの繁華街であっても茅萱の容姿による影響は図り知れず、思わず足を止めて茅萱の顔を振り返る人物がこの数分間の間だけでも何人居ただろうか。それだけのアイドル級の美貌を持つ茅萱が自分を選んでくれたことが誇らしかった。  でもだからこそ、と斎は両手で小突かれた額を抑えたまま小さな声で呟く。 「――このまま、茅萱さんとふたりだけでどっか逃げちゃえればいいのに」 「海老原?」  茅萱は聞こえた言葉に足を止めて振り返る。 「あっごめん今の無し何でもないよ」  斎はハッとして早口で否定する。茅萱と居られる今だけでも十分幸せなのに、もっとと願ってしまう。茅萱の奥底までの全てを知りたくて、思わず口から飛び出た言葉。でももし茅萱がそこまでのことを望んでいなかったらと考えると途端に怖くなる。  茅萱はじっと斎の顔を見つめたその桃色の小さな唇を開く。 「――それもいいかもしんねェな」  夕日に照らされた茅萱の顔が酷く刹那的なものに見えた。  この瞬間に茅萱へと手を伸ばし、走り出していたならばきっと結末は変わっていたのかもしれない。斎は茅萱が浮かべた表情の意味を完全に理解しきれてはいなかった。 「あっれぇ? 征士郎クンじゃなぁーい?」  男性にはそぐわぬ高音の声。大事な局面を迎えていたはずの斎と茅萱の距離感はその一声によってあっという間に現実へと引き戻される。  始めに指定されたシティホテルの立地からも茅萱がこの繁華街に馴染みがあるのはそれとなく分かっていたことで、そうともなれば何処で茅萱の知り合いに出くわしてもおかしくはない状況だったが、茅萱は呼び掛けられた言葉に大きく肩を震わせ、ロボットのようにゆっくりとぎこちなく背後を振り返る。 「……一岐」  その男性は茅萱同様小柄だったが茅萱よりは多少上背があり、その容姿の若々しさから二十代前半程度に見えた。青みを帯びた髪は襟足が長く跳ね、アシンメトリーに整えられた前髪からは左目だけが覗きにっこりと笑みを浮かべていた。  お互いに名前を呼び合う関係性から余程仲の良い間柄であることは伺い知れた。 「茅萱さんの知り合い?」 「あ、ああまぁな」  斎が声を掛ければ茅萱はすぐに視線を斎へ戻し向き直るが、その目線は僅かに泳いでいて斎とかち合うことが無い。繁華街という場であることから、茅萱に顔馴染みがいてもおかしくはなかったが、茅萱の動揺から斎は何か尋常ではない関係性を察していた。 「最近全然顔見せてくれなかったから寂しかったんだよぉ?」  一岐と呼ばれた男性は斎へと向き直った茅萱の背後からべったりと抱き着く。斎はそれが何故か居心地の悪いものに感じられた。  良く言えば愛嬌があり友達を作り易いタイプと言えるのだろうが、一岐に纏わり付かれた茅萱の表情が引き攣っていることに斎は気付いていた。茅萱にも苦手なタイプがいるのだと改めて実感した斎だったが、気付くと一岐がジロジロと斎の顔を見ている。 「ふーん?」 「えっなに……」  見定められるようなその目線に斎の中で何か良くないものが騒ぎ始める。茅萱の知り合いとして片付けるには大分無礼なこの男性とあまり長い間時間を共にしたくないという感情が湧いてくる。  「オイ一岐やめろ」  一岐の不躾な視線に茅萱も気付いたのか、茅萱は一岐の顔を押し返して牽制する。一岐は嫌がる茅萱の顔を指先でなぞり更に顔を近づける。 「ねーぇ、久しぶりだし寄ってかない?」  元々美少女のような顔をした茅萱と、同じ人間とは思えない整った顔をした一岐の絡みはとても絵になる。  何かおかしいと思えば一岐がずっとにこにことその笑顔を崩さないことだった。語気もずっと一定の調子で乱れが見えない。それは元々相手の返答により何かを変えるというより、相手がどう答えようとも自分は何も変えるつもりはないという強い意志のようなものにも感じられた。 「今日は用事あんだよ。見りゃ分かんだろ」  茅萱は一岐を振りほどくことを諦め、わざとらしく溜息を吐き出す。これで一岐とは解散し自分との時間を優先してくれるのだと感じた斎の心は嬉しさに躍った。 「勿論そこの彼も一緒にだよぉ」 「ッ、一岐」  茅萱は慌てたように一岐を振り返る。そこから茅萱は斎に背中を向け一岐とぼそぼそと会話をし始める。その会話の一端も斎に漏れ聞こえることはなく、斎は除け者にされたような小さな悲しみを胸に抱く。  話しぶりから一岐とは久方振りにあったようだし、何ならば自分との約束は次回に改めても構わないと言い出そうと考え始めた斎の心中は、我儘を言って茅萱を困らせたくないという方向へ向き始めていた。 「え、えっと……」  次にいつ会えるかの保証はない。それでも我儘を言って茅萱の機嫌を損ねる事の方が斎にとっては嫌だった。  斎がぐるぐると正解の言葉を頭の中で探しあぐねていると、漸く話が付いたのか振り返った茅萱は目の前のビルを指差す。 「悪ィな海老原。コイツが一杯奢ってくれるらしいからさ、ちょっと寄ってこうぜ」 「え、俺は全然……いいんだけど……」  この場で帰れと追い返されるのではなく、一緒にと茅萱が斎のことも誘ってくれた事が嬉しかった。  

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