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六章 三節

 愛していた、千景のことを。中途入社で入ってきたころから。酔うとキス魔になる千景から飲み会の席で唇を奪われて、雪崩込むようにセックスをしてそのままセフレになった。だから好きだった相手と暮らしていると千景に言われた時、むきになって千景を犯した。  詩緒を山城のパワハラ恫喝から助けたのは自分だった。口は悪いけれど押しには弱くて、文句を言うけど快楽には弱い。でも詩緒は自分たちではなく綜真を選んだ。  真香だけは絶対離れていかないと信じていた。そんな真香の手も、離れた。  もう嫌だ。ひとりになりたくない。どうして誰も自分を選んでくれないのか。みんな自分以外を選んでどうして自分だけが選ばれないのか。愛されたい、愛して欲しい。ひとりで居たくない、ただ淋しいんだ。  茅萱だけが自分を見てくれた。そのアイドル級の可愛らしさで、長い睫毛から覗く瞳で自分を見る。茅萱が、茅萱だけが。  待って、どこに行くの、置いていかないでよ。  腕を伸ばして、茅萱の腕を掴む。 「あれ、ここ……どこだ……?」  これまでの悪夢が全て嘘だったように、突然開けた目の前の光景に斎は重い口を開ける。 「起きたか」  掛けられた声に視線を向ける。斎は枕元に居た綜真の腕を掴んでいた。綜真の指先二本は斎の首筋に宛てられており、綜真が抑えているその箇所からどくどくと自分自身の脈拍を感じた。 「……なん、ぇ、御嵩さん……」  この薄暗い部屋は自分の部屋ではなく、そして何故綜真と共にいるのかという状況を咄嗟には理解出来なかった。しかしこの場所にだけは見覚えがあり、シーツの感触から三睦に犯されたあのホテルの一室であることは理解が出来た。  惚けた斎の返答を聞いた綜真は小さく溜息を吐いてから斎の額に手を当てる。その手はひんやりと冷たかった。 「千景に呼び出されたんだよ」  綜真は顎でしゃくるように部屋の隅を示す。斎が視線だけを向けると薄暗い部屋の奥に扉のようなものがあった。少ししてからその扉が開かれ、光源が線のように扉を囲うと中からワイシャツ姿の千景が出て来る。微かに聞こえた流水音からその扉の先は便所であることが分かった。 「――これ、誰の血だ?」  千景の手には大判のタオルが握られており、上半身を起こして目を凝らすと絵の具のように赤いものが飛び散っていた。 「え……」  どこか怪我をしたのかと斎は自分自身の身体を隈なく見るが、見えるところに傷口は無かった。それどころか両腕が自由に動いた上着衣済みだった。  斎は混乱し始めて頭を抑える。その様子がふらついているように見えた綜真はベッドに片膝を乗せて斎の背中を支える。  怪我がないどころか、記憶を辿ればこの部屋で目を覚ましたときは下着しか着ていなかった。それすらも三睦に脱がされ――何かの注射を打たれたらしきことを斎は思い出す。  意識を手放した後何があったのかを斎は一切知らない。気が付いた時には綜真と千景がこの場所にいた。斎ですらも何も覚えていないらしいという状態を察した千景と綜真は目を合わせて息を吐く。  三睦はどこへ行ったのか、血らしき赤い液体が付着したタオルは何なのか、斎にも聞きたいことは沢山あったが、何からどう聞いて良いのかも分からずただ千景の行動を目線で追う。  千景はタオルを放り投げ、カウチに座って足を組む。室内が薄暗いせいか、千景の顔色が普段よりも悪いような気がした。それにどんな時でもスーツの下にはジレを欠かさず着ていた千景が、今に限ってはネクタイも無くワイシャツ一枚というラフな姿も珍しい。  千景は煙草を口に咥えて火を付ける。テーブルの上に置かれていたガラス製の灰皿には普段から千景が吸っている銘柄の吸い殻が幾つも残っていた。 「俺は何度も忠告したぞ」  ぼんやりと千景を見ていた斎に千景の冷たいひとことが突き刺さる。  呆れられても当然で、千景の忠告を無視したのは自分自身だった。前に千景が言っていた茅萱の悪い噂というのはきっとこのことで、千景が茅萱へ会いに行けないようにセキュリティカードを取り上げたのにも関わらず、千景のセキュリティカードを使い茅萱へ会いに行ったのは紛れもなく自分自身だった。  その結果がこれで、どうやって千景と綜真がこの場に来たのかは分からないが、ふたりが来てくれなければ自分はどうなっていたのかも分からない。 「ふ、ぐっ……うぇっ……」  握り締めた斎の拳にぼたぼたと涙が落ちる。 「……ほんと、はっ……ほんとは…………」  綜真がゆっくりと斎の背中を撫でる。これ以上惨めなことなど後にも先にももう無く、千景にこうしてまた怒られることが何よりも怖くて仕方がない。 「……佐野さんの、……気を引きたか、った……」  感情の全てがぐちゃぐちゃで、自分でも本当はどうしたかったのか分からない。 「愛されたかった……愛されたかった佐野さんに……」  茅萱がいればそれでいいという気持ちと、それでも千景に愛されたいと願う相反した気持ちが斎の中には同時に存在していた。  愛して欲しかったから、茅萱から千景を庇った。気にして欲しかったから、反対されても茅萱を求めた。 「なんも、何もない……俺だけ誰からも愛されない……」  誰からも選ばれない。茅萱が自分を愛してくれるなら、千景のことを忘れられると思った。茅萱とセックスをしている間だけは千景のことを忘れられた。 「……榊には、御嵩さんが居るし、真香とももう……セックスしないってことになったし……」  自分ひとりだけが孤独で寂しかった。  綜真は斎の肩を抱き寄せて、その腕をとんとんと優しく叩く。 「……だけど、だけど茅萱さんだけは、俺のこと愛してるって、言って……」 「その茅萱にお前は売り飛ばされかけたんだよ!」  一瞬の出来事だった。千景は激昂の言葉と共にガラス製の灰皿を手に取り、灰を溢しながら斎に殴り掛かる。 「ひっ……」  咄嗟に頭部を庇って両腕を上げる斎だったが、振り下ろされた千景の腕を綜真が掴んで止めていた。  まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように千景と綜真は睨み合っていた。千景の吐息だけがやけに生々しく聞こえた。綜真は片方の手で千景の手から灰皿を取り上げベッドの隅へと置く。千景は綜真が掴む手を振り払い、少し横を向いて呼吸を整えるように深呼吸を繰り返す。 「……お前な、もう少し優しくしてやれよ」 「それは俺の仕事じゃねぇんだよ」  ここまで千景から斎に対する心配は一切なく、千景に見捨てられたという現実が斎を絶望へと突き落とした。  心配をして欲しかった。真香からセフレを解消された自分を憐れだと思うのならば、その身体で慰めて欲しかった。  茅萱と関わるなと言うのならば、その身体で繋ぎ止めて欲しかった。  千景に見放されてしまえばもう自分が生きている意味など見出せず、手を掴んだ後で再び突き放すのならば始めからこの手を掴んでも欲しくなかった。 「なんで、何で俺に……」  ぼそりと呟く斎へ綜真は視線を向ける。何だか嫌な予感がしていた。 「こんな現実……見せたんだよ……」 「海老原っ」  ベッドの上で立ち上がり、僅かに背中を見せている千景へ掴みかかろうとする斎を綜真は腕を引いて制止させる。綜真に背後から抑えられても斎は千景に対するぐちゃぐちゃで整理のつかない感情を収めることが出来なかった。 「夢見てたかったっ、例え茅萱さんに利用されてただけでも……!」  こんな事が言いたかった訳じゃない。それは分かっているのに、行き先の分からなくなった感情は全て千景に向けて放たれる。  だからこそ斎は千景の唇が張り詰めていたことに気付けなかった。 「……悪かったな、余計なことして」  千景は静かにそう告げる。千景にとっての斎は元セフレであっても今はいち部下であり、何かあれば当然助けるのは道理であったが、千景はもしかして斎に対する接し方を間違えていたのかもしれないと唇を噛む。  斎と千景、ふたりの過去の関係に口を挟めない綜真は斎の感情が落ち着いたタイミングを見計らってぽんと斎の背中を叩く。 「海老原、寮に戻るぞ。詩緒や本田がお前の事を心配している」

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