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六章 四節

 促した綜真に付き添われ斎はラウンジを出る。何処かのホテルの一室だと思っていたあの部屋はラウンジの奥に位置する特別室であったようで、スーツ姿の千景と繁華街に親和性が深い柄シャツを纏った綜真が泣き咽ぶ斎を連れ出す様子を朱門はグラスを拭きながらただ黙って見送る。  外に出るとすっかり日は落ちていて、真っ暗な寒空に繁華街のネオンがただ眩しく斎は目を窄めた。  千景か綜真のどちらかが予めタクシーを呼んでいたようで、ビルの前ではハザードを点滅させたタクシーが停車しており、斎の腕を支えるように掴んだ綜真が近付くと後部座席の扉が自動的に開かれる。  運転手は綜真の名前を確認し、開かれた後部座席に綜真は斎を押し込む。斎はただそれに従うことしか出来ず俯いたまま綜真に従って座席の奥、運転手の真後ろの席へと移動する。  行き先として寮の住所を運転手に告げた綜真はまだ空いたままの扉から顔を覗かせ背広を肩に担いだままの千景へ声を掛ける。 「千景、お前も途中まで一緒に――」  始めから入寮こそしていなかったが、どうせ帰る方向は同じなのだからと綜真は千景へ同乗を誘う。しかし綜真の配慮とは対照的に千景の視線はずっとラウンジの店内へと向けられていた。 「……用事がある。二人で寮に帰ってくれ。……また明日な」 「……ああ、じゃあまた」  それ以上無理に誘うことも出来ず、引き下がった綜真は運転手に伝えて扉を閉めて貰う。タクシーは斎と綜真のふたりを乗せて寮へとエンジンを掛け、項垂れたままだった斎はただ何となくリアガラスを振り返る。  その時、斎は千景が誰かに腕を引かれてラウンジへ引き戻されるような状況を見た気がした。  無言の車内で気まずさを覚えた斎は腕を組む綜真の様子をちらりと見てから口を開く。  「……あ、あの。茅萱さん……は?」  結局ラウンジに足を踏み入れてからは一度も茅萱と会話をする機会がなかった。茅萱は三睦との会話の後バックヤードへ向かってしまい、それから一度も顔を合わせることすらも無かった。  斎からの問い掛けに意識を傾ける綜真だったが、綜真も全てを把握していた訳では無い。 「俺が千景から呼ばれて着いたときには他に誰もいなかったけどな」  斎が寮から姿を消したという事実で寮内は騒然となり、綜真が止めるのも聞かず真っ先に飛び出して行ったのは千景だった。その数時間後突然千景からの連絡でラウンジに呼び出された綜真は、斎が無事に見つかったという状況以外は何も分からなかった。  三睦に何らかの薬を注射され、気が付くとそこには既に綜真と千景がいた。その間に何が起こっていたのかも斎は分からず、三睦から告げられた〝茅萱に売られた〟という言葉がより現実のものとなって斎を襲う。茅萱が三睦に自分を売り渡してしまったからにはもう用済みで、だから本当はバックヤードから裏口でも使って帰ってしまったのではないか。  もっと早くに気付くことが出来たら良かった。千景から止められた時、真香から縋られた時に。  明日からどんな顔をして千景に会えば良いのか、それ以前に寮へ戻ってもどんな顔を真香に向けられるのか。後悔が重圧となって斎の背中からのしかかる斎の目の前に綜真が見覚えのあるセキュリティカードを差し出す。 「お前のカード、アイツから返しとけって言われてたんだ」 「あ、えっ、俺……」  千景はもう斎が茅萱へ会いに行く為寮を抜け出すことは無いと判断してその返却を綜真に託した。斎が寮を出る時に使用したカードは千景のものであり、自分の服にしまった千景のカードを探そうと斎は慌てて全身を弄るが千景のカードを見付けることが出来ない。 「お前が持ってったカードはもうアイツが回収してんよ」 「そ、です、か……」  もしかしたら、綜真より早く到着していた千景なら何かを知っているのかもしれない。何故自分は助かったのか、三睦は何処へ行ったのか。そして茅萱は本当にどこにもいなかったのか。しかしそれを千景に聞く勇気は今の斎には無かった。 「……気のせいかもしんねぇけど」  繁華街の喧騒を抜け、タクシーが信号で停車した時、窓の外へ視線を向けたままの綜真が口を開く。 「海老原、お前自分のこと嫌いつか、自分に自信ねぇだろ」  的確に射抜かれた核心に斎は言葉を失う。両手の拳を再び強く握り、再び涙が込み上げてきそうだった。 「……どうやって、自信持てっていうんですか。分室の中で、俺だけ凡人……なのに」  詩緒や真香と違い、凡人であることを誰よりも一番気に病んでいたのは斎自身だった。 「セックスだけが俺の存在意義だったんですよ。……真香が、榊が俺のこと、求めてくれたのは、セックスがあったからで……」  セックスにだけ自分の存在価値があった。その時だけは凡人の自分にも価値があるのだと信られた。 「そりゃ違ぇよ海老原」  綜真にとって斎の言葉は想定通りであったが、詩緒や真香と共に第五分室のメンバーとして居られるように人一倍の努力を斎がしていたことも綜真は知っていた。  それと同時に詩緒と真香がどれほど斎を友人として大切に思っているのかも知っていた綜真は、その思いが斎にだけは伝わらずここまで拗れてしまったことを今更ながらに後悔する。 「詩緒や本田にとってのセックスってお前が思うほど重要なモンじゃねぇ」  詩緒が斎と真香の存在に救われたのは確かであるし、セフレ関係を解消しようと申し出た真香の気持ちを直接聞いた綜真は今斎と軋轢無く会話が出来るのは自分だけであることも知っていた。 「綺麗事……」 「お前にとってはな」  千景とは二歳、綜真とは三歳しか年齢が離れていないのに何故か自分が酷く子供ように思えて悔しくなった。セックスが重要ではないなどと余裕を抱くことが出来るのは、不安にならずとも迎えてくれる場所と受け入れてくれる存在があるからに他ならない。  自分の手からは結局何もかもが無くなって、自分たちから詩緒を奪った張本人ともいえる綜真のことが急に憎らしく思えてきた。綜真さえ現れなければ、今も詩緒とのセフレ関係は続いていたかもしれないし、真香と三人でこれまでの三年間と変わらない日々を過ごしていくことが出来た。  そうまでして奪っていった詩緒を未だに抱いていない綜真に抱く怒りを見当違いであるとは微塵も疑わなかった。 「……御嵩さんは、未だに榊のこと抱いてないじゃないですか。やっぱり俺らとヤりまくった榊のこと汚いって思って……!」 「オイ」  斎の全身に悪寒が走る。ただ綜真に声を掛けられただけなのに、酷く重いそのひとことは斎からそれ以上の言葉を奪うのには十分だった。  斎がラウンジで三睦と綜真を似ていると感じた理由は、この常人ならぬ異質な威圧感だった。言葉や視線だけで弱い人間ひとりくらいは死に至らしめられそうで、斎は呼吸すらも上手く継げそうになかった。  同じような感覚は灰皿で殴りかかろうとしたあの瞬間にもあった。あの目は人に対して暴力を振るうことに躊躇いなど一切ない者の目だった。 「それ以上言ったら承知しねぇぞ。それは俺と詩緒の問題だ」 「……ごめんなさい」  ただ惨めで、斎にはもう何も残っていなかった。愛していた人も、大切だった友人も、茅萱さえも――全てを失った。 「悲劇のヒロインぶるな、全部自分で選択したことだろ」

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