29 / 40

七章 一節

 斎が綜真に付き添われて寮へと到着した時、既に日付が変わりつつある時刻だった。それでもタクシーから降りて寮を見上げた時、珍しく二階のみならず一階にも明かりが灯っているのが分かった。  夕食の時刻を終えた後、特別な理由がない限り各々自部屋に戻り夜の二十二時にもなればダイニングを始め一階エントランスは真っ暗になっているのが常だったが、今この時間も尚一階に明かりが灯っているというのはこれから帰ってくる存在があることを認識しているからであり、綜真がセキュリティカードを翳し寮のオートロックを開けると寒々しいエントランスで斎を待ち続けていた人物がいた。  赤いガウンを肩に羽織った真香は自動ドアが開く音を聞くと振り返り、玄関へ綜真に続き斎が入ってくるとエントランスのカウチから立ち上がって駆け寄る。エントランスで斎の帰りを待ち続けていたのは真香だけで詩緒の姿は見えなかったが、綜真が玄関にスニーカーを脱ぎ散らかしすれ違う真香の頭をひと撫でしてから振り返りもせずに階段へ向かったことを考えると、詩緒は部屋にいることが分かる。  しんと静まり返ったエントランスの玄関で立ち竦む斎と真香のふたり。斎には真香に対して散々心配を掛け続けてきた自覚があった。何故あの時――背中に泣き縋ってでも止めようとしてくれた時に突き放すような酷い言葉で傷付けてしまったのだろう。  ぱちんと音を響かせて真香は斎の頬を叩く。両目いっぱいに涙を溜めて噛み締める唇は震えていた。  斎はこの真香の平手打ちが今までで一番痛かったような気がする。  寒いのに、たったひとりエントランスで待ち続けていた真香。真香の考えを否定して、浮足立って馬鹿みたいに騙された自分をそれでも待っていてくれた真香。  もうこれ以上流す涙が無くなるほど泣いたのに、目の前に真香が居る、その事実だけで斎の口元は醜く歪み、心臓から一気に水分を押し上げられたような感覚に襲われる。  視界の半分以上を覆う涙で歪んで良く見えなくなる。胸が熱くて、言わなければならない言葉は沢山あったはずなのに、真香を前にするとたったひとことのその言葉ですら上手く紡ぐことが出来ない。  膝から崩れ落ちて、目の前の真香の足に腰に縋り付く。自分が愚かだったのだと、今ならはっきりと分かるから。全てを失ったはずなのに、沢山傷付けたのに、それでも自分を待っていてくれた存在のありがたみを斎はこの時初めて知った。 「おかえり」  真香は少し背中を丸めて、覆いかぶさるように斎の頭部を抱き締めて告げた。  一日の内で何度も泣きすぎたからか、頭に響く鈍痛から斎はダイニングのソファへ横になりぼんやりとキッチンに立つ真香の背中を眺めていた。  今朝このダイニングに降りてきたときにはまだ幸せの絶頂にいた。それは茅萱に騙されているなんて微塵も考えておらず、そればかりか寮からの外出を禁止されていた斎の為にわざわざ茅萱が深夜部屋まで訪問をしてくれたことで茅萱に対する愛情と信頼が最高潮に達していたからだった。  もしかしたらそうやって会いに来てくれたこそすらも、自分を安心させて連れ出し三睦に売り渡す為のただの策略だったのかではないかと考えると再び目頭が熱くなってくる。  茅萱の真意を直接知ることは叶わないが、あれから一度も会ってないどころか茅萱からの連絡がひとつもないことが一番の答えであるような気がした。  身の丈に合わないものを望んでしまった。やはり自分なんかには愛される価値などなく、茅萱に愛されていると思っていたことすら大きな勘違いであったのだ。  ただ初めから全てが嘘だったとしても、茅萱が与えてくれたひと時は斎にこれまでにない幸せを与えてくれた。  寮は、第五分室のメンバーはそれでも自分を仲間として見てくれて、帰る場所として自分を受け入れてくれている。セフレ関係を解消したからといって自分たちの関係が変わる訳ではないとあの時真香は言った。本当に何も変わらず、真香が今も自分を受け入れてくれている現実に感情の津波が再び込み上がってくる。 「真香……心配掛けて、ごめん……」  〝ありがとう〟、〝大好きだよ〟と今の自分が言っても滑稽にしかならなかったが、言いたかった言葉が今漸く言えた。  斎の言葉を受けた真香は、器に注いだ温かいスープを持ってキッチンからソファへ移動して斎の隣に座る。  ほっとする香りは真香の香りで、碌に食事をしていなかった斎はその芳しい家庭の香りに誘われスプーンを手に取り一匙掬う。  透き通った琥珀色のコンソメスープを口の中に入れた瞬間、胃が痙攣を起こしそれを押し返そうとする。内側から込み上がる不快感に斎は口元を手で覆ったままダイニングを飛び出し、一階の共有便所へと駆け込む。  各部屋にそれぞれ便所が備え付けられていることから、一階の共有便所を利用する者はほぼおらず、それ故に新品同様の清潔さを保っていた洋式便所の便座を上げ、引っくり返った胃が押し出した胃液を吐き出す。ただ透明で吐けるものなど何も無かったが、斎は透明で酸っぱいものを何度も吐き出した。  胃の圧迫感と響く頭痛が、あの瞬間の酩酊感を嫌でも想起させる。気付くと真香が斎の背中をゆっくりと撫でていた。  ただ情けなくて、虚しかった。

ともだちにシェアしよう!