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七章 二節

 スープは後で温めてゆっくり食べるようにと真香は器にラップをかけ、それを持って斎の部屋に共に戻った。  斎はベッドに腰を下ろすとそのまま電池が切れたように倒れ込む。真香もベッドの縁に腰を下ろし茫然としている斎の頭をゆっくりと撫でる。碌に食べていなかったこととストレスで胃が驚いただけだと真香は慰めの言葉を掛けるが、フラッシュバックのように三睦にされたあの時のことを思い出してしまったことの方がショックだった。  三睦にされたことを真香に言える訳がなく、言われたところで真香が困るだけであることは分かりきっていた。全身を襲う倦怠感は茅萱とセックスをした直後は毎回そうで、三睦にされた注射のことも併せて考えると嫌な予感しかしなかった。  茅萱にラブドラッグだと言われ飲まされ続けていたものは、果たして本当にただの媚薬だったのだろうか。千景や綜真が何も言わなかったからこそ余計に怖い。  ベッドの上で横になり、自らの身を守るように両手を握り締め、小さくカタカタと震える斎に気付いた真香は、斎が握りしめるその手に自分を手を重ねる。そこから伝わってくる温もりと真香の優しさは、もう到底返せそうにもないものだと斎は感じていた。 「最初は、さ……俺が他の人んとこ行けば佐野さんが追ってきてくれるんじゃないかと、思ってた……」 「ん……」  斎がやけに千景に食ってかかる理由から真香はなんとなくそんな気がしていた。斎が千景に好意を持っているのは誰の目から見ても明らかだったが、それがいつからか不自然なほど斎と千景のお互いがその話題を避けるようになってきたのは、今から考えれば千景が今の恋人と付き合い始めたころからだった。 「……セックス、してないと俺、自分が必要とされてるかも分かんなくて」  少し前にも言ってその言葉が今はら更に強く真香の心へ突き刺さる。 「付き合っててもセックスしてねぇ見本が居るじゃん」  真香は斎がここまで弱いとは思っていなかった。自分がセフレを解消しても問題ないから斎も大丈夫と考えるのは大きな間違いだった。  詩緒との衝突もお互いに最悪な状況が重なってしまったからで、斎のことを考えるのならばもっと慎重にタイミングを見計らわなければならなかった。改めて自分の言葉の選択とタイミングを見誤ったことを真香は深く後悔していた。 「真香と、榊……佐野さんと同じ位、茅萱さんの事……大切だったと思う」  静まり返った寮の室内、斎が告げたそのひとことに真香の表情が凍り付いた。ぴくりと反応を示した真香のその指を斎は握り込み、瞼を落とす。斎の脳裏に浮かび上がるのは、最も消したい記憶。  誰かが側にいてくれることを実感しなければ、きっと心が壊れてしまうかもしれなかった。  千景のことを愛していた。でもそれと同じ位、この短期間は茅萱のことも愛していた。茅萱の愛が本物だと思っていたからこそ。安心して愛しても良い相手なのだと斎は信じていた。三睦のあのひとことを聞くまでは。 「……商品、って……言われたんだ……」  真香は片方の手で拳を強く握り締める。整えられた爪が掌に食い込んで小刻みに震える。それは真香が押し殺そうとしていた怒りそのものだった。 「俺、最初っからあの人に、騙されて、て」  改めて言葉にすると再びほろりと溢れ落ちる涙。千景を守りたかった、抱かれる側の感覚を知りたいだけだった。それなのに茅萱が優しくしてくれたから、茅萱の腕に縋ってしまった。  自分はまだひとりで何も判断の出来ない子供だった。愛されたいなんて願うこどすら身の丈にあっていなくて、やはり自分は千景や詩緒、真香のように特別な才能がある訳ではないから、愛されることを願うこと自体が自分にとってはまだ早すぎたのだ。  涙に濡れたシーツがひやりと斎の頬を冷やす。それでも今ここにある真香の手だけは決して離したくなくて、斎は祈るようにその手へ縋る。  ふわりと温かさが斎を包み込む。真香は片腕で斎を抱き寄せ、まるで母親のようにただ背中を撫でる。自分が犯した大きな過ちに、優しくされればされるほど後悔に押し潰されそうだった。 「……俺と榊が居るぞ」  もう身体の関係があったあの頃とは異なっていたが、それでも真香は優しく、斎は今になって初めて真香が口にしたあの言葉を心から理解できた気がした。  同じ時に同じ年齢で入社して、研修の後はそれぞれ別の部署に配属されたけれど、同期という響きそのものに絆のようなものを感じていた。  詩緒が配属先で上司の山城からパワハラの恫喝にあっていると聞いても、最初の頃は気にも留めなかった。それでもある日ある瞬間に過呼吸を起こした詩緒を助け出して、あの人の来ない最上階の男子便所まで連れて行ったのは――斎にとって詩緒が友人として掛替えのない存在だった。  詩緒とセフレ関係になったのはその少し後のことだったが、少なくとも詩緒を助け出したあの瞬間は身体の関係など皆無で、純粋に友人として心配した詩緒を助けたかった。  真香は眠りに落ちるまでぽつりぽつりと呟く斎の話を聞き続けた。

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