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七章 三節

 瞼に突き刺さる日差しで朝を迎えたと分かった。たった一日で斎は天国から地獄ともいう落差を経験し、半分開けたままだったカーテンから覗く青空に苦々しく目を細める。  いつの間に寝てしまったのだろうと昨晩の記憶を手繰り寄せようとする斎だったが、帰宅してからはずっと真香がこの部屋で自分を慰めていてくれたことを断片的に思い出す。その真香はと思い周囲を見るも、ベッドには自分ひとりの痕跡しか無く真香の姿は部屋のどこにも無かった。  まさかまた真香に嫌われてしまったのではないかという不安に襲われる斎だったが、最早セフレではない関係性故にそもそも同じベッドで目覚めることこそが特異だったのだと逸る気持ちを落ち着かせようとする。  もう真香の気持ちを無駄にもしたくない。再び自分が不安定に陥り真香へ迷惑を掛けるようなことになってしまえば、今度こそ匙を投げられてしまう可能性だってあり得る。  ベッドから立ち上がり、開け掛けだったカーテンを完全に開けて、その陽の光を全身に浴びてから深呼吸をするように背筋を伸ばす。弱い自分とは昨晩さよならをした。自分のしでかしたことは決して消えることのない事実で、傷付けた相手が真香のように許して受け入れてくれるとは限らない。  だけれど大切だと思うからこそ、許されなくても誠心誠意の謝罪をしたい、そんな気持ちがあった。だからこそ斎は自分の中でひとつだけけじめを付けなければならないことがあった。洗面台の冷水で顔を洗い、気合を入れる。  昨日一日着続けていた服を新しいセットアップに着替え、顔を洗い気合を入れ直してからダイニングへと降りる。階段を降りている時点で漂ってくるバターの香ばしい香りに斎は小さな日常の幸せを感じる。  ダイニングの扉を開けると食後のココアを飲む真香の姿があった。扉が開く音に気付いた真香は顔を上げ、斎へ視線を向けるとこれまでと変わらぬ笑みを浮かべる。その笑顔にほっと安堵した斎は椅子を引いて定常化していた自身の席に座る。隣は詩緒の席で、既に朝食を終えているのかカップの底の形と同じ円状の水が残っていた。  真香は椅子の背凭れに掛けてあったエプロンを取り腰に巻きながら一度キッチンへと向かう。綜真の姿は相変わらず無かったが、元々綜真は朝が遅く朝食を共にしないことも多くあり特に気に留めはしなかった。  斎は真香から飲み物の入ったカップを受け取る。普段ならばそれはコーヒーであることが多かったが、昨晩斎が嘔吐したことを考え、常備してあったハーブティーを特別に用意した。ハーブの良い香りが心地よく斎の気持ちを落ち着かせた。  両手で持ったそのカップの中身を吐息で冷ましてほんの一口を含んで喉の奥へと流し込む。不思議と吐き気は起こらず、斎が表情を和らげたのを見た真香は同様に安心して息を吐く。無理をせず一口ずつ飲んでいき、やがてその温かさが身体の芯まで染み入っていくのが分かった。  それでもまだ固形物を食べるのは難しいかもしれないと考えた真香は斎が起きる前から仕込んでいたリゾットを浅い皿に少量盛り付け、米の溶け具合を確認してから斎の前へ置く。彩りとして上に乗せられたパセリがとても鮮やかだった。  エプロンを外した真香はそれを背凭れに掛け、斎が食べ終わるまでは此処にいようと椅子を引いて座ろうとし、斎はスプーンを固く握り締めたまま座ろうとしていた真香へ視線を送る。 「俺さ、今日もう一度茅萱さんと話してみようと思う」  椅子を引く真香の手が斎のひとことで止まる。真香には微かに動揺の色が伺えたものの、斜め下を向いて少し考えた後口を開く。 「……やめとけば? もう、関わんないほうがいいと思う」  何故あんなにも酷い扱いをした茅萱に会いたいと考えることが出来るのか、斎の考えは真香には分からなかった。真香は椅子に座った後でココアの中身をスプーンで無造作に掻き回す。その間斎の目を見ようとはしなかった。 「もしかしたらさ、あの人も……誰かに脅されてやらされてるだけかもしれないし」  もしかしたら、という可能性がまだ拭えない。そう思えたのは一岐の登場と茅萱の慌てぶり、そしてラウンジで三睦と話している時の茅萱の焦り方。  あれから茅萱からの連絡が来ていないのは事実だったが、茅萱にも何か事情があるのではないかと考える余地がある限り、斎はその真実を茅萱自身の口から聞きたいと強く願わずにはいられなかった。  真香はスプーンをカップの端に叩き付け、ダイニングに硬質の音が響く。 「もしそうだったら斎はどうすんの?」  真香がそう尋ねると、一瞬斎が泣きそうな表情を浮かべたように見えた。自分を騙した相手にもまだ事情があったかもしれないと考えることすら愚かしい考えで、真香には再度茅萱に事実を突き付けられ泣き寝入る斎の姿しか想像が出来なかった。  しかし斎が茅萱に心酔していたのは事実なので、そんな斎に対して頭ごなしに否定は出来ないと真香は慌てて言葉に潜んだ怒気を飲み込む。 「俺に出来る事があるなら、力になりたい。……と、思う」  斎はまるで怒られた子供のようにしゅんと眉を落とし、音も立てず静かにハーブティーを啜る。  幾ら斎が物語のような逆転劇を望んでいたとしても、現実は物語のように上手くいくわけではないということを真香は知っていた。  それでも、これが斎の新たな一歩を踏み出す為に必要なけじめなのだとするならば、真香は友人として斎の決断を応援することしか出来なかった。  もし現実がこれ以上斎を傷付ける結果になったとしても、今度は迷わずに戻ってこられるように真香は斎の帰る場所でありたいと願った。

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