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七章 四節

 もう自由に寮を出入り出来る状況となっていたが、特に本棟での打ち合わせの予定がある訳でもなく、自分の部屋で仕事を片付けながら時折デスクに置いたスマートフォンの液晶画面を見て考え込む。  今日の仕事を開始する前の朝のミーティングでは千景の様子は普段と何ら変わらない様子に見えた。昨晩顔色が悪く見えたのは気の所為だったのか、あの後でラウンジへ戻っていたように見えたが、何があったのか、気になる点は次々と湧いてくる。しかし今の斎には愚鈍にも昨晩のことを尋ねる勇気はまだ出なかった。  千景は中途入社した直後から四條に目を掛けられていたし信頼も厚い。入社当時は人を寄せ付けない壁があったが、ここ数年でその壁もなくなり、何よりもパワハラで悪名高い山城に対して面と向かって抗議をした唯一の存在である千景は今や社内で英雄のような扱いでもあった。  その千景が忠告した茅萱に関わるなという言葉はやはり初めから茅萱の行いを知っていたからに他ならない。だからこそ千景は茅萱の誘いに乗るような素振りが一切なく、あの時点で自分が割り込んで千景を助け出さなくとも実際は何の問題も無かったのではないだろうか。そう考えると途端に顔全体が火のように熱くなった。  勝手に乗り込んで勝手に掻き回して喚き散らして迷惑を掛けて――それでも、千景は自分を助けてくれた。その千景に対して自分は気を引きたかったなどとなんと幼稚な物言いを繰り返していたのだろう。灰皿で殴られても仕方のないことを自分は千景に対して行っていたのだった。  灰皿で殴られそうになる前も頬を叩かれた。あの時も千景は冷静になれない自分の目を覚まさせる為に頬を叩いた。あの日千景がプレイングマネージャーに就任した当日、千景が部屋に現れたのはもしかしたら真香から自分が部屋に引きこもっているということを聞いたからかもしれない。心配して様子を見に来てくれた千景に対して自分は一体何をしたのか。  ずっと自分のことを考えてくれていた千景に対する申し訳無さと共に死にたいほどの罪悪感が襲う。しかし同時に自分を撫でる優しい手を思い出した。それは紛れもなく茅萱の手だった。  呼び出された男子便所でセックスをした後、喫煙所へ入る前に突然撫でられた頭。一緒にどこかへ逃げたいと告げた時に見せた物憂げな表情。本当に全てが自分を騙す為の演技だったのか、斎は記憶の端々に残る茅萱の言動を思い出そうと頭を働かせる。  決定的に物事がおかしな状況へ転んだのはやはり一岐の登場からだった。一岐と茅萱のおかしな距離感、一岐の誘いに乗らざるを得なかった茅萱。ラウンジに入ってから茅萱が一度も視線を向けなかったのには何か別の理由があるのではないか。  やはり一岐と三睦に脅されて無理やりやらされているのかという疑問が斎の中に沸き起こる。  だとすれば茅萱は自分を三睦に渡せばどうなるか当然知っているはずだ。それを知っていた上で三睦に引き渡したのだとしたら――フラッシュバックしたように胃が痙攣を起こした。  斎は口元を抑えて自部屋の便所へ駆け込む。喉を込み上がる米粒の不快なぶつぶつとした感触。真香が折角作ってくれたリゾットで便器の中が埋め尽くされる絶望。 「茅萱さんっ……」  斎は再びぼろぼろと涙を流す。何か理由があるのならば言って欲しかった。茅萱が言うのならばきっとどんな言い訳だって信じた。  茅萱が自分に触れる手は優しかった。この部屋から明け方に帰る時、初めて素の表情が見られたようで嬉しかった。  だからせめて茅萱自身の口で否定をして欲しい。あれは茅萱自身の意志では無かったと。三睦に脅されて仕方なく引き渡しただけだと嘘でもいいから安心をさせて欲しい。  まだ茅萱の愛を疑いきれない自分が居たことに斎は気付いた。  真香にはまた呆れられるかもしれない。真香が茅萱に反感を持っているのは今朝のやり取りで何となく察していた。だから真香は自分が茅萱へ会いに行くと告げた時に良い顔をしなかった。  水を流して、洗面所でうがいをしてから再び冷水で顔を洗う。真冬に何度冷たい水で顔を洗っても冷めない熱は、まだ斎の中で完全に鎮火しきれていない疑問があるからだった。  鏡の中の自分を見つめて、再度冷水を叩き付けるようにして両手で自らの顔を叩いて気合いを入れ直す。  作業部屋に戻って椅子に深く座る。ちらりとスマートフォンの液晶画面を見ても通知は何も無く、ただの文鎮のようにそこにあるだけのものと化していた。  出すものが何も無くなるまで口から二酸化炭素を吐き出す。そして肺に入り切らなくなるまで沢山の酸素を吸い込み、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。  もう現実から目を背けたくない。ここで逃げたら二度と茅萱とは会えないかもしれない。何故だかそんな気がしていた。  目を閉じて真っ暗な視界の中気持ちが落ち着くまで深呼吸を繰り返す。ゆっくりと目を開けてからスマートフォンを手に取り、茅萱とのトーク画面を開く。最後のやり取りは昨日茅萱と合流する直前までのもので、茅萱から送られてきたスタンプが今は何故かとても悲しい気持ちになる。  震える指先で一文字ずつ正確に文字を入力していく。たった四文字〝会いたい〟と。送信ボタンを押そうとする指が震える。もし送ったところで一生既読の文字が付かなかった場合にはどうしたら良いのだろう。既読になっても返事が無かったらどうしよう。会いたくないと返されたら――嫌な考えだけがぐるぐると巡る。昨日はあんなに幸せだったのに。今はこのボタンひとつ押すだけでもとても怖い。斎は祈りを込めてその送信ボタンを押して四文字の言葉を茅萱へと届けた。

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