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怖い、よりも知りたい(3)

 香りにつられたということだろうか……。  ラインハルトの翻意の理由はよくわからなかったが、時間をかけて状況を理解したユリウスは、急ぎ厨房に行き、エレナにこのことを伝えた。 「さすがユーリ様ですわね。やっぱり思ったとおりでしたわ」  と、何故かエレナは得意げだった。  慎重に火ばさみでかまどから焼き石を取り出し、火鉢に入れて浴室へと運ぶ。  焼き石は、殿下が湯浴を了承されたときのために用意していたものだ。  浴室は思ったよりも狭かった。  大人の男が膝を抱えて入れるくらいの桶があり、その桶が、浴室の半分ほどを占めている。風呂に入ってもあまり寛げそうにはなく、殿下がさっさと水浴びで済ませようとする気持ちもわからないではない。  石鹸や体を拭うための浴布(タオル)は、壁際に置かれた、背もたれのない木製の椅子の上に置かれていた。  火鉢を床に置き、再び厨房に行く。  何往復かして、盥にいっぱいのお湯を溜めた。  その中に、故郷から持参してきた、何種類かの薬草を乾燥させ、すり潰して粉にしたものを入れてかき混ぜる。森林の中にいるような、清涼感のある爽やかな香りが漂い始めた。  最後に焼き石にお湯をかけて蒸気を発生させてから、浴室から出た。今の時期なら、蒸気浴だけでもかなり体は暖まるはずだ。  浴室の前室で待っていると、まもなくしてラインハルトが現れた。片方の手に燭台、もう片方には、体を拭く浴布や湯浴後に身につける衣を手にしている。 「香りは大丈夫ですか? お嫌いな香りなら、薬草の入っていない湯もお持ちします」  ユリウスは人より鼻がいい。  扉の隙間から漏れてくる微かな香りを嗅ぎ取れるが、殿下にはわからなかったようだ。扉のほうに顔を向け、「よくわからない」といったふうの顔を返された。 「お前が好きな香りなら、それでいい」  そう言って自身のコートのボタンに手を伸ばしたが、その手を止め、ユリウスに顔を向ける。 「もう行っていいぞ」  ユリウスがいつまでも傍らにいるのが気になったようだ。 「湯浴の手伝いをするように言われたのですが、お着替えを手伝ったらよろしいのでしょうか?」  殿下は舌打ちでもしそうな渋面をし、はぁ、と呆れたように溜め息を吐いた。 「手伝いなどいらん。普段の水浴びも、あの者たちが手を貸したことなどない。余計な気を回されただけだ。あとで言っておく」  「余計な気」とはどういうことだろう。  少し引っかかったが、ユリウスにとって、それは重要なことではなかった。それよりも、本当にそれでいいのかと戸惑う気持ちのほうが強い。  ユリウスの家では、湯浴の際、着替えも一人でするし風呂も一人で入るが、髪を乾かすのはいつも侍従の仕事だった。  今日一日、ユリウスの仕事ぶりは、余計にワーグナー夫妻の手を煩わせるようなもので、役に立っていたとは言い難かった。今日を終える前に、何か一つでも役に立つようなことをしたかった。 「でも……。差し支えなければ、髪を乾かすお手伝いだけでもさせてください」  おずおずと申し出ると、ラインハルトはしばらくの間ユリウスをじっと見つめて、観念したように口を開いた。 「居間で待ってろ」 「あ、はい。では、ゆっくり暖まってくださいね。中が冷えてきたときは、焼き石に湯をかけると蒸気が出て暖まります」  ユリウスは一礼し、前室を離れた。    もしかしたら殿下は、人が困ったり、気落ちしている姿に弱いのかもしれない。  そんな考えが浮かんできて、居間へと向かう足取りは軽かった。  庭で話をしたときも、今も、ユリウスがしょんぼりしたり困った顔をすると、申し出を受け入れてくれた。  怖いもの知らずのようなあの殿下に、まさかそんな弱みがあったなんて。  ひとりでに、ふふふ、と笑みがこぼれていた。

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