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第5騎士団(2)

 その日、ユリウスは、『選定の儀』以来およそ半月ぶりに姉の家を訪ねた。  姉は、ユリウスがラインハルトの妾になったと勘違いしている。最初はがっかりされるよりは勘違いされたほうがいいと思っていたけど、エイギルとラインハルトが従兄弟である以上、事実を隠し通すことはできない。殿下の名誉のためにも、いいかげん本当のことを話さなければならないと、ようやく決心がついた。  選定の儀で誰にも選ばれず、ラインハルトの慈悲で侍従にしてもらっていた事実を伝えると、姉のローザは驚き、そしてあからさまに落胆を顔に浮かべた。  すぐに気を取り直したように、「でも、ライニ様は絶対に、ユーリを気に入ってくれると思うわ」と、何の根拠もない慰めの言葉をくれたが。  ユリウスを励ましたいという姉の気持ちは痛いほどわかるので、「そうだといいけどね」と当たり障りのない返事を返した。  姉の落胆した様子を見ても平常心でいられたのは、侍従が、自分で選んだ道だからだろう。  毎日、ユリウスが用意する薬草湯を、殿下が喜んでくれる。殿下の衣を洗い、食事の仕度をし、殿下の髪を乾かせることを、嬉しく思っている。最近は疲れが溜まっているのか朝から殿下が起きてこない日も多いので、殿下を起こすこともユリウスの仕事の一つになった。  つがいになった翌日、「侍従でいさせてください」と言ったことを、後悔したことは一度もなかった。  だから、姉に「そうだといいけどね」と言ったのは、強がりではない。侍従として気に入ってもらえたらいい、という意味で言った。  侍従として殿下の役に立てるのなら、それでいい。それだけでいい、はずだった。  その日はローザの家で夕餉をご馳走になった。  帰宅したエイギルがローザにキスをし、優しい笑みを浮かべて、駆け寄って来た子供たちを抱きかかえる。少し離れたところでそれを見守る、乳母や侍従たち。  以前も見たことのある光景に、そのときは感じなかった、確かな胸の痛みを覚えた。  エイギルの姿に、殿下を重ねてしまったからだ。  そう遠くない未来で、妻を娶り、子供が生まれて、エイギルのように夫となり父となった殿下と、少し離れたところで一家団欒を見守る侍従の自分。その光景を想像したら、ぎゅうと締め付けられたように胸が痛んだ。  自分が殿下に、いつのまにか侍従以上の感情を抱いていたことに気づかされた。  また今回も手の届かない相手かと思うと、恋心を自覚するのと同時に失恋の痛みも覚えたけど。今回は、近くで見ていることが辛くなったときは、侍従をやめるという選択肢がある。  そう思ったら、一度目より気楽でもあった。  その頃には料理や洗濯も今より上手くなっているだろうし、つがいができてフェロモンが他のアルファやベータに影響しなくなっているから、働き口は他にもあるだろう。  それに、今のところ殿下には妻も妾もいないため、エイギルのときのように好きでいることで誰かを裏切るわけでもない。侍従から好意を寄せられているなんて主は知りたくもないだろうから、気持ちを隠さなければいけないのは、今回も同じだけど。  自分にできることは、今まで通り侍従として仕えている間、殿下の役に立てるように、精一杯働くことだけだ。そう思ったら、気持ちを自覚する前と後で、何も変わらないように思えた。  殿下に頭を撫でられても、あからさまに喜びを顔に出さないように。殿下を熱っぽい視線で見つめないように。それだけ気をつけて、毎日を懸命に過ごしているうちに、いつのまにか、都に来てひと月が経っていた。  昼餉の後の休憩時間には、庭にいるのがユリウスの日課になっている。  この時間、いつもワーグナー夫妻の息子のトマスが、食材やら馬の餌やらを届けてくれる。ユリウスは滅多に家の外に出ることがないから、荷物を運ぶのを手伝いながら町の人たちの話を聞くのを、毎日楽しみにしている。  しかし、いつもは陽気な声で挨拶をしてくる彼が、今日は姿を現したときから、何やらそわそわした様子だった。 「ライニ様がなんとかって辺境伯の娘婿になるって噂を聞いたんすけど、本当ですかい?」  開口一番にトマスが放った言葉は、ユリウスにとって唐突過ぎて、最初は何を言っているのかわからなかった。  言葉を理解すると同時に、体中の血がサーっと一斉に足元下りていく感覚がする。  一瞬、目の前が真っ暗になりかけたが、咄嗟に荷車の荷台に両手をつき、しゃがみ込んだため、倒れずにすんだ。 「ユーリ様! どうしました? 大丈夫ですかい?」  しばらくじっとしていたら、血の気が戻ってきたようで、吐きそうなのとゆらゆらと体が揺れる感覚は治まった。  ただ、バクバクと加速した心臓の音は、しばらくは元に戻りそうになかった。 「は……はい。最近、暑くなってきたから、立ちくらみしたようです」  何とかそれだけを返す。  心配したトマスがユリウスの体を抱きかかえるようにして軒下に連れて行ってくれた。  その後は体調が戻ったふりをし、トマスといつものようにとりとめもない話をしていたはずだが、会話の内容は全く覚えていない。  覚悟はしていたけど。  まさかその日がこれほど早く来るとは、思ってもいなかった。

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