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舞踏会の夜に(1)

 殿下のために、早急に故郷に帰らなければならないことはわかっている。  ただ、毎日の忙しさと使用人の仕事量の多さをみると、かわりの人がいないのに来てすぐにやめますとは言えない雰囲気があり、なんとなく言い出せずにいるうちに、ここに来てもうすぐひと月が経とうとしていた。  フリッツは顔を合わせるたびに、まだ帰らないのか? と言いたげな顔で見てくるが、それを口に出して言われたことはない。訊かれるのは、困っていることはないか? とか、また誰かに嫌がらせされていないか? といった、気にかける言葉ばかりだ。  殿下はあの日以降も夕食を食べに食堂に来ているようだが、ユリウスが厨房に引きこもっているので、顔は合わせずにすんでいる。  けれど、だからといって、いつまでも結末を先延ばしするわけにもいかない。  それに喫緊の問題として、周期が早ければ、もうすぐ三か月に一度の発情期(ヒート)が来る。つがいができたことでフェロモンが他のアルファやベータに影響しなくなっているといっても、甘い香りが出なくなるわけではないし、宿舎の四人部屋で発情期(ヒート)をやり過ごすことは難しい。  ここで働き続けるのなら、従僕長にオメガであることを告白して、発情期(ヒート)の間、身を隠せる部屋を貸してもらおうと思っていたが、それより先に故郷に帰るほうがよいのだろう。  近々、お城で舞踏会がある予定で、それに向けて皆が忙しくしているため、舞踏会が終わったら使用人をやめさせてもらえるよう、従僕長に相談にいこうと思った。    ユリウスは昼食を食べたあと、キリのいいところで少しだけ仕事を抜けて、従僕長の執務室を訪ねた。部屋をノックし、中から声がかかるのを待って、扉を開ける。 「従僕長。少しご相談したいことがあるのですが、今よろしいでしょうか?」 「なんだね? もうじき騎士団長が来る予定だが、それまでなら大丈夫だ。ひとまず入りたまえ」  ありがとうございます、と言って足を踏み入れたユリウスは、その足先の床に小さな草の葉が落ちているのを認めた。見覚えがあったため、なんとなく気になってポケットへと入れる。 「ん? どうした?」 「いえ。埃が落ちていただけです」 「そうか。今日は来客の予定があって、掃除を断っていたからな」  咄嗟に、『葉』ではなく『埃』と言った理由は、自分でもよくわからない。ただ、直感で、なんとなく知らないふりをしたほうがいい気がした。そもそも、書類仕事しかしないはずの従僕長の執務室に草の葉が落ちていることも、不可解に思える。 「それで、相談とは何だね?」 「実は……、」  と言いかけたとき。背後の扉が勢いよく開く音がした。 「例のものは準備できたか? ……と、来客中か」  ノックもせずに入ってきたのは、騎士団長だった。 「も、申し訳ありません」  ユリウスは慌てて、ぺこりと頭を下げる。 「あの……、僕のほうは特に急ぎの要件ではないので、また改めて出直します」 「よいのか? 悪いな。先客なのに」  言葉とは裏腹に、騎士団長の表情に悪びれた様子はない。  最初の印象は騎士というより文官ぽくて、上品で理知的な人に思えたが、何かに集中すると周りが見えなくなるタイプなのかもしれない。

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