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舞踏会の夜に(6)
昼間に場所を確認しているといっても、薄暗い中では似たような廊下や部屋の扉の見分けがつかず、だんだん自信がなくなっていく。
そんなとき、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔を掠めた。
――これ……薬草湯の匂いだ……。
都にいたとき、殿下に湯浴のために出していた薬草湯の香りが微かに廊下に漂っていた。
領内の視察に出かけていた殿下が戻って来てから、舞踏会の前に湯浴をされたのだろう。その薬草の香りが、お嬢様のためのものだったかもしれないと思うと少し胸が苦しくなるが、それは今のユリウスにとって、容易に掃き捨てられる感情だった。
ライニ様がこれからも生きていてくれるのなら、それだけでいい。
おかげで、香りの濃いほうへと辿ることで、途中で間違えずにウェルナー辺境伯の私室へと辿り着くことができた。
扉に耳を押し当てると中から声がした。
声がするということは、殿下はまだ毒を飲んでいないということだ。
ひとまずホッと胸を撫でおろす。
「お考え直しください」とか「君の言うとおりにしよう」といった声をわずかに聞き取れた。
部屋が広すぎるようで、従僕長の執務室で盗み聞きしたときのようにはいかない。
――と、そのとき。廊下の奥のほうから足音が聞こえてきた。
ユリウスは慌てて忍び足で逆方向へと向かい、廊下の曲がり角に身を潜める。
暗がりから現れたのは、女中だった。カップや酒瓶の載ったトレイを手にしている。
おそらく彼女が女中たちが言っていた『マーサ』で、騎士団長に懐柔された女中だ。
彼女を止めるべく、走り出そうとしたが――……、急に体に衝撃を感じ、身動きが取れなくなった。
じたばたともがいても駄目だ。後ろから羽交い絞めにされ、鼻と口も塞がれている。「んーーー」という鼻にかかる呻き声しか洩らせない。
女中のことにばかり意識がいって、背後から人が近付いていたことに全く気付かなかった。
――この匂い……!
勉強も武芸もてんで駄目だったけど、人より鼻がいいことはユリウスの数少ない長所の一つだ。体臭で、背後にいる人物が誰かを察することができた。
女中が扉の前に行き、ノックし、すぐに部屋へと入っていく。
隣に人が立つ気配がする。
「副団長が酒を飲んだらすぐに部屋から出るようにあの女には言ってある。あの女が出てきたら、襲撃する。計画は辺境伯もご存知だ」
横目で見上げた先ににいたのは、騎士団長だった。
「襲撃する」と言っているからには、今この場にいるのは、ユリウスを羽交い絞めにしている人物以外にも何人かいるのだろう。
「だから、早くここを離れるように言ったのに」
羽交い絞めにしている人物が、ぼそりと耳元で呟いた。
今にもライニ様が毒を飲もうとしているかもしれないのに。僕は何もできないのか――!?
自分の無力さに、涙が零れた。
ライニ様、ライニ様、ライニ様……。
頭の中でなら、何度もその名を呼べるのに。
せめて呻き声だけでも危険を知らせられないかと思ったけど、部屋まで距離があるのと厚い扉に阻まれ、無理そうだった。
神様――。
僕はどうなってもいいから、どうかライニ様をお救いください!
「――ん? なんか甘い匂いがしないか?」
騎士団長がそう言ったけど、鼻を塞がれているためユリウスにはわからない。
「お前、もしかしてオメガか?」
騎士団長がユリウスの髪に鼻先を近づけてくる。
燭台の明かりを近づけられたのかふいに頭上が明るくなり、シャツの襟の後ろをぐいと引っ張られた。
その瞬間、口を塞いでいた手の力が少しだけ緩んだ。
口をこじ開け、塞いでいた掌に思いっきり噛みつく。
「いてっ」
掌が離れ、ユリウスは叫んだ。
「ライニ様! 酒を飲まないで! 毒入りです!」
すぐに扉が開き、殿下が飛び出してきた。
「ユーリ!」
まだ毒は飲んでいなかったようだと一瞬安堵したけど、形勢が逆転したわけではない。
舞踏会のために正装をしている殿下は何も武器を持っておらず、すぐにその周りを10人ほどの剣を抜いた兵士たちが取り囲んだ。騎士団の騎士ではなく、全員が辺境伯軍の兵士だった。
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