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舞踏会の夜に(7)
水底に沈められたかのように空気が重く、息苦しさを感じる。
それは自分だけではなかったようで、殿下に剣を向けた兵士も、ユリウスを羽交い絞めにした男も、騎士団長も、微動だにしなかった。
殿下が放つ、アルファの威圧感によるものだろう。
「確かフリードリヒ・グートマンといったな。部隊長の。その者を離せ。お前達が家族を人質に取られ、辺境伯に従うしかなかったことは知っている。人質がこの城の地下牢に囚われていることも突き止めた。今ならお前達の罪は問わない」
背後の男からは、逡巡する気配が感じ取れた。
「で……。殿下はご自身の置かれた状況をまだわかっておられないようですね」
引き攣った声で答えたのは、騎士団長だった。
「あなたは皇族であっても、騎士団の副団長にすぎない。彼らの罪を減ずる立場にないあなたの言葉を、この者達が信じるわけないでしょう? それに殿下とこの者を殺せば、罪自体なかったことになる」
「はははは」
空気をビリビリと振動させるような高笑いが響いた。
「ご自身の置かれた状況をわかっていないのは、貴殿のほうだ」
扉の前にいた殿下が、こちらに近づいて来る。
彼に剣を向けた辺境伯軍の兵たちは、その体勢で固まったまま動こうとしなかった。
殿下は、剣を構えた騎士団長の前で足を止めた。
「犯した罪は、決してなかったことにはならない!」
怒りに満ちた眼差しが、彼を見据える。
「陰謀を察した前任の副団長を亡きものにし、その罪をなかったことにできたと思ったのだろうが、それは明るみに出なかっただけで罪がなくなったわけではない! そのため、陛下は俺をここに派遣された。宮廷からの持ち出しが禁止されている防衛地図や武具の設計図の写しをお前に託したのが第2皇弟であることも、それを手土産にウェルナー辺境伯がケースダルム王国に帰属しようとしていることも、陛下はご存知だ!」
ただ命令に従っていただけの兵士たちはそのことを知らなかったようで、兵士たちの間に動揺が走る。
驚いたのはユリウスも同じだった。
騎士団長がラインハルトを殺そうとしているのは、ウェルナー辺境伯の娘婿の立場を殿下に奪われようとしているからだと思っていた。まさか水面下でそんな国家規模の陰謀が渦巻いていたなんて。
「ここ数日、俺が領内を視察していたのは、警備状況の確認のためじゃない。舞踏会の参加者の身元の確認と、そのついでに周辺の辺境伯にある頼みごとをしていた」
「頼みごとだと?」
騎士団長が声を上擦らせる。
「あぁ。この舞踏会がケースダルムの使者に我が国の防衛情報を渡すためのものだと踏んでいたからな。参加者の中に身元のあやふやな貴族が紛れ込んでいたら、それがケースダルムの使者だ。昼間のうちにそれを確認できたから、のろしを上げておいた。今頃、のろしを見た周辺の辺境伯軍の兵が、城を取り囲んでいることだろう。ケースダルムの使者も、我が国の防衛情報も、この城から一歩も外に出ることはできない!」
「ば……、馬鹿な!」
声の主は、よろよろとした足取りで部屋から出てきた、ウェルナー辺境伯だった。部屋の中で、外の会話にずっと聞き耳を立てていたのだろう。
「私とカッシーラー公は旧知の中だ。彼らだって、辺境伯領にまで奴隷制度を廃することを強要した国のやり方に、納得していなかった。我が領がケースダルムに帰属すれば、彼らだって後に続くに違いない」
「聞いたか?」
殿下がぐるりと回りを見回す。
「これが、このおっさんの本音だ。時代を逆行して、奴隷制度を復活させて、貴族だけが富を得る世の中に戻れば、それが領民のためだと信じてやがる」
その瞬間、後ろから羽交い絞めしていた腕が離れた。
フリッツがその場に跪く。
それを見て、殿下に剣を向けていた兵たちも一斉に剣を収め、殿下に向かって膝を折った。
「くっ……。使えない奴らめ!」
これでようやく解決しそうだと気を抜きかけたユリウスは、首に冷たいものが触れたのを感じた。
「ユーリ!」
殿下が顔色を変える。
ユリウスの喉元に突きつけられていたのは、剣の切っ先だった。
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