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はじまりの場所(5)

 故郷に帰り着いたとき、何だかとても懐かしかった。  離れていたのは、たかだか三カ月やそこらなのに、数年ぶりくらいに帰って来た感覚がする。  近くで見ると、10日会わなかっただけなのに、殿下はひどくやつれた顔をしていた。削げた頬には無精ひげが生えていて。隈もひどい。  馬車を帰し、ニゲルを厩舎に繋ぎ止めたあと、殿下は家へと案内しようとするユリウスを呼び止めた。 「ここで、しばらく話をしてもいいか?」 「え? いや、でも……。皇弟殿下がいらっしゃっているのだから、居間にお通しして、お茶やお菓子を出さないと……」  こんなところで話をしたと知られたら、叱られるのはユリウスだ。 「できれば、ここがいい。ここが、お前と……、ユーリと出会った場所だから」  ……出会った場所……?  ユリウスは睫毛をぱちぱちと瞬かせた。  記憶を紐解いてみても、皇弟殿下が我が家に来たなんて、見たことも聞いたこともない。  記憶力がいいほうではないから、絶対にそうかと訊かれたら、あまり自信はないが。  殿下は厩舎の柵に腰を下ろした。  手招きされ、ユリウスもその隣に腰かける。 「昔、しばらくここでエイギルが世話になっていたことがあっただろ? そのとき、エイギルにルトって従者がいたの、覚えてるか?」  ユリウスは顎に指をあて宙を見上げて、6才の頃へと記憶を遡った。 「そう言えば……。いましたね」  ぼさぼさの長い前髪でいつも顔が隠れていたから、顔は思い出せない。エイギルと違って無口で、ほとんど会話したことはなかった。  ただ、こうして思い出してみると、彼と会話をしたのは、ほとんどこの馬小屋だった気がする。 『人といるより馬といるほうが気楽でいい』  ここにいる理由を訊くと、確かいつもそう答えていて……。 「その、ルトが俺だ」 「ええ!?」  ユリウスは思わず声を荒げた。 「あの頃は……。今の皇帝が即位してすぐで宮廷内が荒れていてな。エイギルの父親も謀反の罪を着せられて処刑されたし、第一皇弟は皇太后に毒殺されたって噂だった。俺の身も危ないと思った母が、地方での病気の静養を表向きの理由にして、俺をこっそり宮廷から逃がしたんだ。皇弟であることがわかれば皇太后が刺客を送ってくるかもしれないから、エイギルの従者として、身を隠していた」 「それって、うちの両親は知っていたんですか?」  殿下は首を横に振った。 「知っていたのは、エイギルと、母の侍女だったエレナだけだ」 「そう……。だったんですか……」 「エイギルが……、俺が部屋にいると、泣けないからな。たまにエイギルを一人にするために、ここに来ていた。でも、ここにいると、いつもお前が来て……、色々話しかけてくるから、最初は鬱陶しいなと思っていた」  遠くを見つめるラインハルトが、懐かしそうに切れ長の眸を細める。その眼差しがとても優しかったから、「鬱陶しい」と言われても傷つきはしなかった。  ユリウスも、なんとなく覚えている。  エイギルは人前では気丈に振る舞っていたけど、父を処刑され、無理やり再婚させられた母とも会えず、かなり辛い思いを抱えていたに違いない。  エイギルの元気がない時に庭で取った花を彼の部屋に持って行くと、彼が一人で泣いていることがあった。  そういうとき、子供ながらに声をかけづらくて、いつも馬小屋に来ていた。  母が生きていたときも、そうしていたから。  実の母の顔は覚えていないが、その顔がいつも泣き顔だったことは、なんとなく覚えている。  庭で取った花を持って母の部屋に行くと、「ユーリ、ごめんね」と言って泣きながら抱きしめられていた。母のことで覚えているのは、謝罪の言葉と、ユリウスを抱きしめるとき、いつも母が泣いていたことと、部屋に漂っていた薬草の香りだけだ。  母の部屋に行くと、顔を見られて嬉しい以上に悲しい気持ちになってしまうから、その後はいつも馬小屋に行っていた。  当時の自分は、なぜ馬小屋に行きたくなるのかわかっていなかったけど、ルトが言っていた、『人といるより馬といるほうが気楽でいい』という気持ちに近いものがあったんじゃないかと思う。  だから、エイギルのときも、彼が泣いているところを見ると悲しい気持ちになって、馬に会いにきていた。そしてそこには、いつも先客がいた。  ルトと、どんな会話をしていたのかは全く覚えていない。エイギルに渡せなかった花をかわりに彼にあげていたことだけは、なんとなく覚えている。   「お前が来て、どうでもいいことを色々話しかけてきて、それに答えている間だけは、刺客への恐怖も、身を潜めていなければならないことも、エイギルへの気遣いも、母と会えない寂しさも、忘れていられた。ユーリといるときだけ、ただの子供でいられたんだ」  それは、自分も同じだったかもしれないと思った。  継母は、我が子同然にユリウスを可愛がってくれたけど、姉や弟のように甘えてはいけないことは子供心になんとなくわかっていたし、使用人たちの態度が自分にだけ冷たいことも薄々感じ取っていた。  家族の一員でいるために無理に「いい子」を演じていた子供時代で、馬小屋でルトと話しているときだけは、子供らしくいられたような気がする。

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