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第2話
会場の近くにある居酒屋で腰を落ち着けると、家に帰ってきたような安堵の溜め息が零れた。
アルコールと煙草の匂いが懐かしく思え、さっきまで非現実的な空間で吸っていた甘いものが溶けだしていく。
ここには「おめでとう」も「幸せになって」も聞こえない。ただアルコールに任せ、バカ騒ぎを許される場所だった。
きっちり結んだネクタイを緩めて、皺にならないように上着を脱ぐと、男も俺に倣うように同じ動作をした。ぎこちなく上着を脱ぎ、丁寧に畳み隣の席に置く。
シャツ一枚になり、男の身体の輪郭がはっきりとわかる。日に焼けた首と腕、そこを逞しい筋肉が隆起している。それにこの物慣れなさはサラリーマンじゃない。工事現場か、それに似た外で働く職業だろう。
「名前」
「え?」
「これから飲むのに名前がわからなかったら、呼びづらいでしょ」
そうですね、と男は慌てて鞄から名刺入れを取り出して、これまた不慣れな動作で手渡され、俺も自分のものを渡した。
受け取った名刺に視線を落とす。スポーツ用品の社名が書いてあり、肩書きはアドバイザーと記されていた。その横に「橋倉奏太 」と所在なさげに小さくみえた。
「ああ、だから谷崎綾と坪内編集長の知り合いなんだ」
「はい。年に何回か一緒に登ります」
「あいつらのプロフィールビデオ、全部山ばっかだったもんな」
会場で流れていたプロフィールビデオに山頂で撮影したであろう二人の姿が、何回も映し出されていた。
夫婦揃って登山が趣味で、仕事の合間を縫って月に一回は登りに行くという。正月は富士山のご来光に授かるのが毎年の楽しみだと語っていた。
そういえばビデオに橋倉も映っていたかもしれない。
「じゃあアドバイザーってことは、本業は登山家ってこと?」
「……そうです」
責めているつもりはないのだが、どうも俺の低い声は威圧的なものに聞こえてしまうらしい。橋倉はあからさまに視線を泳がせて、俺と目を合わないようにしている。まるで叱られた子どもだ。
登山家といっても、そんな職業は日本では存在しない。
山を登るのに装備や入山料などかなり金がかかる。有名な登山家になればテレビ出演や本を出版して金を稼ぐことはできるが、大半は単発のバイトをいれて金を貯める。
また稀に橋倉のようにアドバイザーとなれば、時計や靴など登山に必要な装備の新製品を作る助言をする代わりに、登山の費用をサポートして貰うこともできる。
近年では女性も登山に興味を持ち、「山ガール」など呼ばれじわじわと人気が広まっている。そのお陰で装備は女性にも使いやすいように改良され、見た目も可愛いものが増えてきている。
また仕事を引退した年配の人も健康のために登山をしていることも多い。
一見近寄りがたい印象もあるが、誰にでも簡単に始められるスポーツとして広まってきているのは事実だ。俺は絶対にやらないけど。
普段は山を登っている時間の方が多いのかもしれない。スーツなんて冠婚葬祭以外で着る機会がないから着せられている感があり、動作もロボットのようにぎこちなかったのか、と納得した。
「……失礼ですが、「うすい」さんで合ってますか?」
「ああ、合ってるよ。ちょっと読みづらいよな」
「碓氷」という名字は昔から読み間違えられることが多く、「うすひょう」と呼ばれることが多かった。
子どものときは律儀に訂正して回ったが、今ではもう慣れてしまった。
だから一発で読める人間を見ると、好意を向けてしまう。橋倉を見返すと俺の名刺をまじまじと眺めていた。
「烈 さんって言うんですか。漫画に出てきそうな名前ですね」
「名字が寒々しいから、せめて名前だけでも熱くしようと思ったらしいよ」
「猛烈、熱烈、烈火ですか」
「そうそう。暑苦しいったらありゃしない」
手のひらで扇いでみせると、橋倉はうっすらと笑みを浮かべた。笑うと右側に深いえくぼが浮かび、その表情は彼を幼くみせた。
「じゃあ酒と飯、さっさと頼もうぜ。俺、腹減ってるんだよ」
「俺もです」
メニューを二人で覗き込んで、店員を呼ぶと大学生らしい女の子がにこにことやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「とりあえず、ビール二つと」
適当につまみを注文すると、店員はそそくさと立ち去っていった。
再び向かい合うと橋倉はじっと俺をみつめていた。またか、と思ったが黄金比がどうのこうの言っていたし、よっぽど俺の顔が気に入ったのだろう。
同性に好かれて悪い気はしないが、良い気もしない。何とも言えない複雑な心境だ。
お互い見つめ合ってるのも気持ち悪いので、テーブルの上に置いてある橋倉の手のひらを眺めてみる。
爪は短く切り揃えられ、赤切れや切り傷など痛々しい痕がいくつもあった。
その、今まで頑張ってきましたとばかりの貫禄めいている指はいいなと思う。
ネイルをしている爪より、深爪しそうなほど短く装飾もしてない方が好みだし、荒れているとなお良い。我ながら変な癖だとは思うが、そういう人ほどベッドで乱れてくれる気がする。
普段は家事や仕事を頑張っている分、セックスのときハメを外し、意識を飛ばすまで酔わせてくれる。そんな女を抱くと、嫌なことも良いこともすべて忘れさせてくれた。
こいつも一人前に女を抱いたりするんだよな、と下世話な想像を浮かびすぐに霧散した。
「その腕時計、珍しい形してるな」
橋倉の腕に巻いてある腕時計は、画面部分が異常に大きく、横にはいくつものボタンがあった。
「これ登山用なんですよ。普段に使えそうなもの持ってなくて」
橋倉は袖をめくり、左手首に巻いてある腕時計をみせてくれた。黒色のラバーバンドで一見安っぽくみえるが、デジタルで表示された画面には時刻以外に数字とグラフみたいなものが表示されていた。
「その数字なに?」
「これは高度と気温です。あと横のボタンを押せば方角もわかります」
時計の横についているボタンを押すと画面が切り替わり、方角が示された。ここは南南東を向いているらしい。
「すごいな」
「でも実際、腕に装着しているので気温はあてになりませんし、方角もコンパスを持っているので使うことはまずないです。あくまで予備として考えるものですね」
橋倉は真剣な表情に変わり、驚くほど饒舌だ。さっきまでおどおどしていた人物とは思えない。スイッチが切り替わるみたいに、山のことになると人格が変わるようだ。
「これだけ色々付いているので、けっこう重量があるんです。これ夏に出る新作で女性でも使えるようにカラーバリエーションを増やすらしいんですが、それよりも軽くして腕の負担を減らすべきだと思うんです」
「ちょっと付けさせて」
「どうぞ」
橋倉から腕時計を受け取り、自分の腕に巻いてみた。確かに重量はあるが、別段不便も感じない。手首を回すと腕時計を巻いていると感じさせられるくらいだ。
ただこの重さを常に感じ、なおかつ高度のある山を登っていると体力も削られ、煩わしくなってくるかもしれない。これは山を登る人間でないとわからない。
「確かに重たいかも」
「ですよね。女性向けに作るのであれば、この画面のデザインも柔らかいものにして、形もスマートにした方が受けると思うんですよね」
「へえ」
女性目線のことも考えられるのか。木訥なようだが、こと仕事になると必死に頭を捻るタイプらしい。
俺がじっと腕時計を観察していると、橋倉は我に返ったように目を瞬かせて顔を赤らめた。
「すいません。つまらない話でしたよね」
「いや、俺の仕事にも関わりある話だし、けっこう興味深かったよ」
「坪内さんたちとは同僚なんですか?」
「そうそう、スポーツ雑誌の編集。こういう機会じゃないと自分から知ろうとも思わないからさ」
俺は隔週で発売されるスポーツ雑誌の編集部に勤めている。毎回特集する内容は異なり、時季ものだったり流行っているものだったりするので、最新情報にはどんな些細なものでも食いつきたくなる。
といっても、まだまだ下っ端な上にやる気もないので、そこまでの情熱もないのだが一応取り繕っておく。
「編集さんなら締め切りがあって、大変そうですね」
「まあね。毎週のように締め切り締め切りで、嫌になっちまう。でも一昨日にちょうど上がったばっかだから、今週いっぱいは余裕あるかも」
「だから坪内さんたちは、結婚式を挙げられたんですね」
「そうそう。綾なんて式の準備も忙しいみたいで、目の下に隈作って出勤してたぞ」
いつもは毅然と背筋を伸ばしオフィス内を闊歩していた綾が、疲労を溜めた青白い顔と猫背で歩いている姿は久しぶりにみた。
「谷崎さんと仲が良いですね」
「同僚だしな。でもあっちの方が出世して、男としては情けないかも」
肩を落としてみせると、橋倉は曖昧な笑みを浮かべた。女が先に出世される男の荒んだ気持ちなどわからないだろう。適当な相槌を打たれるよりも、流してくれる方がありがたい。
ビールを流し込み、苦みと炭酸が喉を抜けていく。いつもよりアルコールが身体に沁み、口が軽くなる。橋倉が聞き上手なせいもあるが、俺のストッパーはゆっくりと外れていった。
「ま、綾とは身体の関係もあったけど昔の話だ。だから新郎とは穴兄弟ってわけ」
「えっと……はあ」
流して貰うつもりだったが、橋倉の表情からは困惑の色がみてとれた。笑って流してくれたらいいものを、橋倉は真剣に受け止めてしまったようだ。出世の話は受け流せるくせに、下世話な話は受け止めてしまう不器用さが若さかな、と感慨深く思う。
とうに終わった話だし、結婚した綾にもう一度関係を迫る気もない。
過去は過去でしかなく、取り消すこともできない思い出になる。
俺の中ではすでに完結し、同僚でもない奴に言ってもいいだろうという軽い気持ちだったが、橋倉は顔見知りの綾の過去の男に少なからず嫌悪感を抱いたかもしれない。
失敗したな、と臍を噛んだ。
せっかくの二次会で好みの女もおらず、自分を見つめていた男を誘って飲み直しても微妙な空気で息が詰まりそうだ。
気まずい沈黙はビールのジョッキを空にすることで、綱渡りのようにぎりぎりのラインを歩いている。
橋倉は視線をテーブルの隅に固定したまま、酒を飲みつまみを頬張っていた。それを何ともなしに眺め、ほどよい酔いに思考が鈍くなっているのをただ待っていた。
二人の間に微妙な空気が流れる。
お互い口を縫いつけられたように開くこともなく、料理が運ばれてきてもその重さは変わることはなかった。
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